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映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

『Fukushima 50』感想

映画『Fukushima 50』 オリジナル・サウンドトラック

 『Fukushima 50』をみたので以下感想。

  東日本大震災時の福島第一原子力発電所の事故を題材にした映画が公開されるとしったとき、それはフィクションの役目だろうか、と素朴に感じたことを憶えている。フィクションの機能の一つが暗喩であるならば、東日本大震災という途方もない出来事の、かろうじて触知しうるほどの何事かを提示できるのは、まさしく何がしかの暗喩であって、事実をそのまま描くことではないのではないか、という疑念を抱かずにおれないからだ。そしてスクリーンにおけるこの作品は、そうした懸念をはるかに越え、我々の持ちうるフィクションの存立基盤について暗澹たる気持ちにさせられる作品だったといっていい。

 福島第一原子力発電所を再現したというセットは無論出来がいい。いかにもそれらしくみえる。そのそれらしさが構図や諸々に大きな制約を与えたとしても、その本物性のほうに賭け金を置く、という選択がありうることは了解できる。そこに過去に対するある種の誠実さをみてとることはできる。しかし同時に、この映画の作り手の誠実さはそこに尽きる程度のものであったことは、原子力発電所の外部、具体的には首相官邸の描き方が証明してしまってもいる。

 東日本大震災時の内閣総理大臣菅直人であったことは誰もが知っている。そして我々の常識に寄り添い、いかにも菅直人的佇まいを要請されたかにみえる佐野史郎が、内閣総理大臣の役柄を演じている。しかし、「菅直人」という固有名は一度たりとも口にされず、民主党という党が政権与党であったことを誰もが忘却してしまったかの如く、この作品世界の人物たちはふるまう。

 また、首相の振る舞いが現実とは大きく異なっているらしいことが、以下の記事で指摘されている。

映画『Fukushima 50』はなぜこんな「事実の加工」をしたのか?(中川 右介) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

 ここに過去への誠実さは見事に忘却されている。そしてこの映画の結部は、美しい日本の国土をザッピングしてゆき、最後、水平線上に上る朝日などという陳腐極まる暗喩にのせて、2020年の我々にとって、いま・ここが「復興五輪」に向けて編成されているのだと告げる。ここに、福井や鹿児島、佐賀でいままさに原子力発電所が稼働しているということが閑却され、すべてが救済された時空が捏造される。これは未曾有の災害すら都合のよい「すでに終わった出来事」としてパッケージし、耳障りのよい「お話」がつくりあげられる。これは端的に過去の抹殺である。

 しかしこの映画の作り手にも一片の良心が残っていたために、そうした過去の抹殺は完遂されていないともいえる。この映画はとにかくおもしろくないので、「耳障りのよいお話」へのパッケージ化は失敗していて、それはよかったんじゃないかな。