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『おおかみこどもの雨と雪』の描く社会

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 本日12月20日、金曜ロードショーで『おおかみこどもの雨と雪』が放送される*1。『おおかみこどもの雨と雪』は、昨年劇場でみて、Blu-rayも購入して何度も見ているが、感想をブログに書くことは今までしてこなかったなあ、と改めて思った。せっかくのTV放映という機会なので、それにあわせて感想を書いておこうと思う。

 

おおかみこどもの雨と雪』は、しんどい映画だった

 私が劇場で『おおかみこどもの雨と雪』を見た時の感想は、しんどい、つらい映画だったな、みたいな感じだった。映画を通して語られる主人公、花の人生が悲劇的で、つらいものだから、映画自体もしんどい、つらい映画という印象になった、というのもある。劇中で、花は笑顔を絶やさずに問題と向き合っていき、その都度正面から問題と相対していくわけで、その姿勢があるから、映画自体のトーンはそれほど暗くない。それでも、夫を不慮の事故で亡くし、大変な苦労を背負い込む彼女の人生は、私の気持ちを十分に落ち込ませるほどには悲劇的だった。

 しかし、それよりなにより、『おおかみこどもの雨と雪』がしんどい映画だったのは、現実の社会の残酷な一面が鋭く描かれているからだった。特に東京での、夫を亡くしてからの花の受難は、見ていてとてつもなく居心地の悪さを感じた。それは多分、隣の住民からの苦情や、児童相談所の職員が家に来るなどの描写が、リアリティを感じさせる描き方をしていたからだと思う。都市においては、他者との関わりを断って生きることなど不可能だという、当たり前の現実が示される。

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 田舎に舞台が移って、花をとりまく環境が好転するのかと思いきや、そう簡単にいかない展開なのもリアル。都市と違って、農村では他者との関わりによって強烈な負荷がかかることはなくなったが、しかし農作物作りは失敗し、自給自足の生活には程遠い。

 韮崎のおじさんが助け船を出すことで、農作物をなんとかつくることができて、農村の人々とも打ち解けることができるわけだが、誰かの無償の好意がなければ、おそらく農村の社会にも溶け込めなかっただろうと想像させる。結局、地域のコミュニティ、つまり人間との関わりが、花を救ったことになる。都市と違って、農村における他者との関わりは好意的に描かれるが、それは都市と農村の対比というより、むしろ花の態度の変化に関わる部分が大きいのではないかな、という気もする。

 都市での花は、他者との関わりを持とうとせず、本から得た知識のみでこどもたちと生きようとした。しかしその閉じた生き方は、こどもという、外部に少なからず影響をあたえてしまう存在が原因で、都市では他者から攻撃の対象となることになる。一方、農村では韮崎の助け船を花が活かす形で、他者との関係が築かれていく。花が関わろうとしたから、農村での他者との関わりは、彼女を助けたのではないか。

 『おおかみこどもの雨と雪』がえがく社会のしんどさは、他者と関わらざるを得ないことのしんどさであるような気がする。

 

学校の残酷な機能

 『おおかみこどもの雨と雪』が描く社会は、都市・農村といった大きな枠組みだけではない。より小さく、そしてなにより日本に生きる誰もが必然的に関わらざるをえない社会が描かれている。それは、学校である。この学校の機能を鋭く描いている点こそが、『おおかみこどもの雨と雪』がしんどい映画である大きな理由でもあり、同時にすごい映画だと私が感じた理由でもある。

 本作が描く学校の機能とは何か。それは、「規律=訓練」である。人は、他者に見られることを通して、規律を学習し、守る。いつしかその視線は内面化され、他者の視線がなくとも規律を守るようになる。こうして規律は内面化され、この規律の内面化は、学校の、特に小学校の持つ機能のひとつだと思う。この「規律=訓練」の過程を、『おおかみこどもの雨と雪』は鋭くえぐりだす。

 それは特に女の子、雪のほうで顕著だ。雪は小学校に入る前までは、おおかみらしさに溢れる少女だったが、学校に入るとそれは変わっていく。それは、母である花との約束もあろうが、宝物をみせあうシーンに象徴されるよう、他者との関わりのなかで「少女らしく」あらねばならない、という規律が彼女の中に完全に内面化されたことが大きいのではないだろうか。学校の場で、「おおかみこども」というある種の個性が縮減され、平均的な少女像、もっと言えば「近代的な主体」へと彼女を導く機制が強烈に働いているように思える。

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 一方、男の子、雨は学校の「規律=訓練」によって個性を縮減されることはない。彼は学校の「規律=訓練」を拒否するが、それは同時に学校という社会から疎外されることを意味した。彼が登校を拒否するようになった原因は、この点にあるのではないだろうか。学校的な制度を拒否し、「近代的な主体」になる道が閉ざされた彼は、「おおかみ」に接近してゆく。それまでは「おおかみ」とはかけ離れた生き方をしていたのにも関わらず。

 この二人の対照的な生き方は、学校の規律=訓練の帰結を明確に提示しているように思える。「規律=訓練」によって個性は縮減されて、いわゆる「近代的な主体」、普通の人間に近づく。一方、その「規律=訓練」を拒否することは、社会そのものからの疎外を意味する。雨は「おおかみこども」であるから、人間の社会から疎外されても、獣の社会で生きていけるし、それがある種の希望として提示される。しかし、普通のこどもは「おおかみこども」ではないので、獣の社会では生きていけない。人間の社会で生きていくほかない。そんなところに思いをはせてしまったので、『おおかみこどもの雨と雪』はしんどい映画だなあ、と思っている、という感想です。

 

 

 それと同時に、やっぱりこの映画には救いもあって、それがしんどいながらも何度も見ていられる要因だと思うんですが、それはどうにも言葉にできない。またあとで、考えがまとまったら書きたいなと思います。

 

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細田監督作品の感想。

 

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【作品情報】

‣2012年/日本

‣監督:細田守

‣脚本:細田守、奥寺佐渡

作画監督山下高明

‣出演

*1:多分この記事を投稿した時には「放送された」となっていると思います。