宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

「教養主義」の亡霊としての「オタク」―自省のための「オタク」論

 

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

 

 

  先日、竹内洋氏の『教養主義の没落』を読んだ。明治期から1960年代後半頃まで、大学等の高等教育の場で、大きな影響力を持った「教養主義。その始まり、変質し、そして没落していく過程を描いた本なのだが、これが大変面白かった。「教養主義」とは、端的に言うと人格形成、社会改良のための読書が重視され、それこそが「正しい」大学生活のありかたなのだ、みたいな考え方のこと。その変化の過程は、そのまま日本社会の移り変わりと重なり、その必然の帰結として終わりを迎えることとなった。

 しかし、「教養主義」のある側面は、未だ日本に残っているんじゃないかとも思った。現代日本で、「教養主義」の残滓を感じさせるのは、どんな人たちか。それはいわゆる「オタク」である。そこで、「教養主義」的な側面から「オタク」を考えてみたいと思う。

 そもそも「オタク」とは誰か

 「オタク」について述べるんだから、そもそも「オタク」とは誰かをはっきりさせておいた方がいいだろう。しかし「オタク」は定義困難だ。研究者によっていろんな側面から「オタク」は定義されてきたし、そもそも人によって、「オタク」についてもっているイメージは様々だろうから。それはつい最近の、イラストレーターのあきまん氏が「オタク」に対する言及が引き起こした喧々諤々の議論からも明らかだと思う。

あきまん氏が語るオタク論!人生で「自分の好きなモノ」を理解する重要性とは? - Togetterまとめ

 しかし、「オタク」を定義しなければ、お話を進めることができないので、さしあたって僕の考えを述べておく。ここでは、何らかの趣味に深く没頭している人、ぐらいの感覚で「オタク」という言葉を使おうと思う。その趣味は、アニメでも漫画でも鉄道でも音楽でもなんでもいい。

 こんな曖昧で範囲の広い定義をしたのは理由がある。その趣味がなんであれ、趣味に没頭している人のなかに、かつての「教養主義」者と似たような機制が見られると考えるからだ。この機制は、多分アニメオタク固有のものでも、鉄道オタク固有のものでもない。趣味一般に深くコミットする人間には共通してみられるものだと考える。曖昧な定義の理由はそこだ。

 これはあくまで僕個人の考えであって、皆さんがどう捉えようがそれは自由だと思うし、「オタク」に明確な定義を与えようとすること自体不毛だと思う。ただ、この記事の中で僕は、上のような定義で「オタク」という言葉を使いますよ、というだけである。記事の後半では、主に議論の対象はアニメオタクになる。しかしながら、僕自身は「オタク」一般について言いたいんだよ、とエクスキューズしておく。

 

教養主義の一側面―「象徴的暴力」と「修養主義」

 さて、「オタク」の定義をさしあたって決めたところで、「教養主義」がどのようなものか、その特徴を確認したい。竹内氏の本の中では、教養主義のさまさまな側面が描かれるが、そのなかの2点に絞って紹介したい。それは、第一に「象徴的暴力」、第2に「修養主義」だ。以下でそれぞれを確認しよう。

教養主義の「象徴的暴力」

 教養主義の「象徴的暴力」とは、いったいどんなことを指すのか。それは、『教養主義の没落』の中で引用されている、和辻哲郎の対話体のエッセイに端的に表れている。和辻が青年に語るという形になっている部分を以下で孫引きしよう。

「君は自己を培って行く道を知らないのだ。大きい創作を残すためには自己を大きく育てなくてはならない。 (中略)君が能動的と名づけた小さい誇りを捨てたまえ。(中略)常に大きいものを見ていたまえ。(中略) 世界には百度読み返しても読み足りないほどの傑作がある。そういう物の前にひざまづくことを覚えたまえ。ばかばかしい公衆を相手にして少しぐらい手応えがあったからといってそれが何だ。君もいっしょにばかになるばかりじゃないか。」

 竹内洋「第1章 エリート学生文化のうねり」『教養主義の没落』、p54

 和辻は、青年を書物の前に「ひざまづ」かせようとする。より学識を積んだものの行使する「教養」は、そうでないものに劣等感を与え、ひざまづかせる。これを竹内氏は象徴的暴力と呼ぶ。

 

教養主義のもつ「修養主義」的側面

 二つ目として挙げた「修養主義」は、かなりわかりやすい。修養とは、身を修め心を養うこと。つまり、教養によって自己を鍛錬する、みたいな発想があったということだ。この2つの側面は、現代の「オタク」に色濃く受け継がれているんじゃないか、と考えた。

 例えば映画オタクだったら、多分過去の名作を見ていないと、「お前、あれ観てないのかよ。」的な、ある種の象徴的暴力にさらされるんじゃないかと思う。それは多分、アニメでも音楽でもそうじゃないか*1

 で、そういう誹りを受けないために、「修養主義」的発想で、過去の名作、名盤を聞きあさり、自己を鍛錬する。自分を「オタク」だと自認する人は、だれしもこうした経験があるような気がする。どこかの本で、「オタク」の特徴というか気質とて、「よく知ってるねー」みたいなことを言われると、「いや、自分なんてまだまだっすよ」みたいな返しをしがち、と書いてあったが、まさに修養主義的な発想だと思う。

 

「オタク」の「教養主義」は死んだ?

 僕以外にも、「オタク」と「教養主義」の関わりを指摘している人は、ネット上に結構いた。しかし、僕にとっては意外にも、「オタクの教養主義は死んだ」、みたいに考える人の書いた文章ばかり見つかった。ググって上位に出てきたのはそんな記事ばかりだった。

オタクにとっての「教養」は崩壊した。次は「常識」がなくなるだろう。(2124文字):海燕のゆるオタ残念教養講座:ゆるオタ残念教養講座 - ニコニコチャンネル :エンタメ

Togetter - 「アニメオタクの教養とか知識とか経験とか」

 

 上の記事は主にライトノベル、アニメオタクを射程としているが、それも確かに一理あるような気がする。しかし、それは本当だろうか。「オタク」の教養主義もまた、没落の過程をたどったのか。

 そうではない。確かに、消費者の中に「教養主義」的な姿勢はもはやみられないのは事実だろう。しかし、いや、だからこそ、「オタク」の「教養主義」的側面はむしろ強くなってはいないか。それは、「にわかオタク」という言葉に端的に表されているような気もする。

【注目】最近増えているにわかオタクとは?? - NAVER まとめ

 上の記事の「にわかオタク」の定義なんかはずさん極まりないので、それ自体はどうでもいい。着目すべきは、「にわかオタク」という言葉の持つ、侮蔑的なニュアンスだ。この「にわかオタク」という名づけは、まさしくかつての教養主義の特徴であった、象徴的暴力を体現するような言葉ではなかろうか。つまり、アニメオタクは、もはや大衆化したアニメという文化の中で、その教養主義的発想を、堕落した形で発露させ継承しているとはいえないだろうか。

 

「オタク」はどうあるべきか―「教養」の正しい使い方

 「オタク」のそのような姿勢を、どう捉えるかは人それぞれだと思う。「にわか」と差異化を図って、教養主義の象徴的暴力の上に胡坐をかくのを是とするのも、それはその人の自由だ。結局価値判断の問題だからだ。しかし、「にわかオタク」を馬鹿にするような風潮は、僕個人としてはちょっとどうなの、と考えている。

 自分自身、正直言って、「にわかオタク」を馬鹿にしたことがないとはいえない。『ジョジョの奇妙な冒険』が昨年から今年にかけて放送された時、僕の周りには原作を未読で「ジョジョおもしれーwwwww」みたいなやつが増えた。正直に言おう、途轍もなくウザかった。原作読めやと心の底から思った。

 しかし、考えてみれば人はだれしも最初は「にわか」なのだ。生まれながらの「オタク」など存在しない。アニメについてすごく詳しくても、別のことではそうとは限らない。別のことに興味が出たのなら、その道の「にわか」として入門するしかない*2

 

 今まで、散々教養主義のある種の負の側面ばかり述べてきた。しかし、「教養」には負の側面しかないのか?いや、そんなはずはない。竹内氏も、「教養」の、ある種のあるべき在り方について、前尾繁三郎という人物を例にこう述べている。

前尾にとって教養とは「ひけらかす」(差異化)ものでないのはもちろん、必ずしも「得をする」(立身出世)ものでもなかった。自分と戦い、ときには周囲に煙たがられ、自分の存在を危うくする 、「じゃまをする」ものだった。

 竹内洋「終章 アンティ・クライマックス」『教養主義の没落』、p244

 差異化でも立身出世でもなく、自省のための「教養」。それであってこそ、初めて「教養」の真価が発揮されるのではないか。「オタク」が謙虚さを保持する縁となるのも、また教養ではないのか。「にわかオタク」と「オタク」の狭間を絶えず横断するような在り方。それが「オタク」の、ひとつのあるべき在り方なんじゃないの。それを結論としてひとまず筆を置きたい。

 

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

オタクはすでに死んでいる (新潮新書)

 

 

 

オタクの逝き方

オタクの逝き方

 

 

 

*1:鉄道とかだとまた違うような気もする。詳しくないので想像の域をでないが。

*2:だから、改めて自省の意味を込めてこの文章を書いている。