『残響のテロル』1話感想 今、太陽を盗めるのか? - 宇宙、日本、練馬
先日『残響のテロル』をみて以来、『東のエデン』について考えておきたいなーとの思いが募ってきていまして。2009年の放映開始からもう5年がたつのにも関わらず、そして震災、原発事故という未曽有の大惨事を経たのにもかかわらず、『東のエデン』はそのアクチュアリティを失っていない、と僕は思っていて。それは2009年時点でもはや戦後的なるもの/戦後的体制が壊れる兆しを見せていて、東日本大震災はその流れを加速させたにすぎないんじゃないかと考えているからなんですが、それはひとまず置いておいて、今回の記事では滝沢朗という一人の人間、一個のテロリストに焦点をあてて『東のエデン』を語ろうと思います。『残響のテロル』について考えるための整理としても。
滝沢朗は何をしたのか?
『残響のテロル』をこれから見ていく上で、『東のエデン』という作品において、どのようにテロリズムが描かれたのか。それを考える
『東のエデン』で滝沢朗をはじめとするセレソンたちに課せられた使命。それは「100億円で日本を救う」こと。何をもって「日本を救う」とするのか。あえて明示されないその答えをめぐって、12人のセレソンがそれぞれ行動をしていくわけなんですが、以外にもそのセレソンとの攻防というか、それぞれの思惑が交差して...みたいなこともあるわけだが、『東のエデン』が大きな尺をとって描くのは、そんなパワーゲームではない。むしろヒロインである「普通の女の子」、森美咲と、ヒーローである滝沢朗との関わり合いこそ、僕は最も重要なんじゃないかと思う。特にテレビシリーズではそうだ。
滝沢朗と物部大樹
とはいえ最終盤や映画では、滝沢朗と真っ向から対立するセレソンである官僚、物部大樹との対決が前面に出てくる。この対立も、「滝沢朗がなにをしたのか」という問いに答えるためには考える必要がある。
この二人の思想というか、方向性の対立はそれほど鮮明であるようには思われない。むしろ結構似通っているようにも思える。映画後半の滝沢の「同じ方向を見てるような気がするんだけどな」の台詞はある点ではまさに正鵠を射ている。
物部の日本を救うビジョンとは何か。
「私は、亜東に100億を何に使うかと聞かれたとき、まずこの国にとってやるべきことは、国家規模のダイエットだと答えたよ。使える人材を政府主導で振り分け、世界に通用する部門だけを有効に機能させていく。そういった小さくて小回りのきく国に移行していくべきなんだとね。」
この方向性は、結構滝沢も共有しているんじゃなかろうか。それはテレビシリーズ最終話のこの台詞にもあらわれている気がする。
「この国には頭のいい連中がいっぱいいんのに、アイディアを実現するための損な役割をやるやつがいないんだ。」
両者とも、結局有用な人材を見つけ出していくことに、「日本を救う」ことを懸けている。とはいえ、物部のビジョンは「役立たずを切り捨てる」という方に重点がおかれていて、滝沢のそれは、作中におけるニートの有効利用にも象徴されるように、「埋もれているものを救い出す」ことに重心がある。この差を滝沢は「愛」の有無だと表現したわけだが、感情論はともかくとして、どちらも表裏一体であることに変わりはない。それゆえ、滝沢は物部に対しては基本的には受け身の行動しか取っていない。最終話の、結城の感情を利用したテロ攻撃を防いだりとか。
そう考えると、この「人材の有効活用」というビジョンによって、滝沢朗はヒーローたり得たわけではない、とするのが妥当なんじゃなかろうか。滝沢と物部の対決からみた感じでは、滝沢は日本の在り方を再設計するという側面においては「特に何もやっていない」と言える。物部のアイディアとの相違点が「愛」の有無でしかない以上、そう言いきってもいいのではないか。
加えて言うなら、物部の発想は極めて新自由主義的。彼はまさしく、グローバル化した状況に対して的確に順応しようとする「勝ち組エリート」だといえる。この新自由主義的な思想自体、グローバルな経済状況に適合する形で生じたものであり、日本が避けがたくその枠組みに組み込まれている以上、それに対する明確なカウンターを示すことは困難なんじゃなかろうか。新自由主義に対する反対表明は様々な形でなされているとはいえ、それを示すことが「日本を救う」ことに直結するのか、ということには疑問符がつく。その意味でも、滝沢は物部の発想を全面的には否定し得なかった。
滝沢朗と森美咲
敵役である物部との関連から、「滝沢朗はなにをしたのか」という問いに答えることは十全にはできなかった。この問いに答えるためには、作中でもっとも重心をおいて描かれた、「普通の女の子」森美咲とのかかわりにこそ着目せねばならない。
最終的に、滝沢朗がとった行動は全国民にテロの予告を行うことだった。そのテロの内容は、「若者を楽園へ連れ去る」こと。それをやめてほしければ、「上がりを決め込んでいるオッサンたち」が、既得権益を捨てて若者と和解せよ、と要求する。この発想はどこから生じたのか。その答えは、テレビシリーズ5話、咲との会話の中にある。
就職先で非道な対応をされた咲と、滝沢との会話。
「私、本当は行きたい会社があったの。でも面接でね、「あなたたち若い世代こそが会社の主人公です」って言うくせに、実際は、私たちを使って自分たちだけうまくやっていこうとしているんじゃないかって思えてきちゃって、自分から断ったの。」
この咲の独白のなかで、「若者対オッサン」という構図が浮き彫りになる。いいように使われて捨てられる若者たちと、その生き血を啜るオッサンたち。『東のエデン』作中全体を通して見ても、この対立軸はかなり露骨に表現されている。若者はニートたちも含めて極めてポジティブに描かれる。一方オッサンたちのいやらしさったらない。咲に牛丼をぶちまけたオッサンはもちろんだし、物部も大概いやな奴として描写される。若者はポジでオッサンはネガ。
こうした対立軸から咲を、ひいては若者を救い出すこと、ひいてはその対立軸自体の解消こそ、滝沢の目的として立ち現われることは、上の咲の台詞を受けての彼の反応にも明らかだ。
「ウチへおいでよ。俺が全部背負いこんでやるから。咲の話で、俺が何すりゃいいのかわかったし。だから無理して働くことないよ、俺に任せて。それにこの国はどのみち、一旦は誰かがなんとかしなきゃならないほどおかしなことになってるんだからさ。咲に牛丼かけたようなオッサンたちを、まとめてひっぱたいてやるよ。俺たちをただの消費者としてしか見ていなかった連中をまとめてね。」
もうこの時点で、滝沢のなかでひとつの答え、ラストのテロ予告につながる答えが出ていたことは間違いない。つまりラストの滝沢の行動は、なにより咲のためのものだった。これを受けて、いや、滝沢という人間とのかかわり全体を通して、咲はどう変化したか。それはラストの彼女の行動をみれば、多くを語る必要はないだろう。
つまり「滝沢朗がなにをしたのか」という問いへの僕の答えはこうだ。「普通の女の子をひとり救った」。もちろん、それだけにとどまらず、それが若者たちを救う可能性は示唆したものの、現実が、もしくは老獪なオッサンたちがそう甘くはないことも作中で明示された。滝沢朗という人間の残響のなかを生きる若者たちの明日は、もはやひとりのヒーローの手を遠く離れて、彼ら自身にゆだねられた。ネグリ=ハートのいうマルチチュード的なるものへと、若者たちは歩を進めるのか。それともオッサンたちにからめとられ、搾取され続けるにとどまるのか。
こんなことを考えました。『残響のテロル』はもっとドラスティックな感じが1話にしてぷんぷん漂ってるんですけど、森美咲ー三島リサという「普通の女の子」という共通のアイコンが存在する以上、それにひきつけたら『東のエデン』と重ねて語れるんじゃね、みたいなことを思ってます。とりあえず、今後に期待ですね、はい。
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