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網野善彦の今日的?意義―『網野史学の越え方』に関する個人的メモ

 

網野史学の越え方―新しい歴史像を求めて

網野史学の越え方―新しい歴史像を求めて

 

  先日テレビ放映されていた『もののけ姫』をみたりなんなりしたことで、網野善彦さんの仕事への関心が個人的に高まっているわけなんですよ。僕は網野さん自身の書いたものを読みはしたけれど、それが日本史の分野でどう受け止められ、批判され、継承されてきたのかということは特に知らないかったんですよね。専門じゃないし。でもちょっくら興味がわいたのでちょっと本を読んでみたらいい感じの整理がなされていたので、それをメモっとこうと思います。参考にしたのは小路田泰直編『網野史学の越え方―新しい歴史像を求めて』に所収の桜井英治「「網野史学」と中世国家の理解」です。

 網野史学の成果

桜井氏は、狩野政直氏の論文を参考に、網野さんの研究成果を7つにわけて整理している。その内容は以下の通り。

  1. 「日本」という国号の意識化  (「日本」の相対化)
  2. 「非農業民」という範疇の提示 (「百姓」の相対化)
  3. 「無縁」「公界」「楽」の提示 (単純な発展史観の克服)
  4. 天皇制の執拗な追及      (天皇の相対化)
  5. 東国・西国史観の提唱     (単一民族説の克服)
  6. 海からの視野の提唱      (「島国」観の克服、国境の相対化)
  7. 歴史を貫徹するものへの絶えざる問い (「民族的特質」の解明)

 網野さんの最終的な目的というは7で、1~6はそれに向かうための当面の標的、という位置づけである、と桜井氏は述べる。

 僕は網野さんの研究を総ざらいしているわけではもちろんないので、どの著作が何番に対応するのかは理解しているわけではないですが、以下で僕の考える著作との対応関係を示すと

  1. 日本とは何か 日本の歴史〈00〉

  2. 日本中世の百姓と職能民 日本中世の民衆像―平民と職人 (岩波新書)
  3. 無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和

  4. 日本中世の非農業民と天皇』『異形の王権

  5. 東と西の語る日本の歴史

  6. 海と列島の中世 』『海の国の中世

 みたいな感じでしょうか。いやしかし『日本中世の非農業民と天皇』のように、それぞれのトピックが横断的に語られている著作のほうが多い気もするので、こういう風に研究成果の整理と著作の対応関係を示すのは不適当な感じがしますね。自分でやっといてなんですが。

 この1~6の研究成果の特色を一言でいえば、「常識の打破」ということになる、と桜井氏は述べていて、そこが歴史学を学んでいない多くの人を引き付ける要因になっているんじゃないかと思います。今まで意識化すらされなかった常識を意識化して、なおかつそれをひっくり返すという試みは、読んでいて単純に面白いと感じる。その網野史学の面白さが凝縮されているのが、『歴史を考えるヒント』だと思うんですよねー。

歴史を考えるヒント (新潮文庫)

歴史を考えるヒント (新潮文庫)

 

 

  そうした「常識の打破」のはてに、「民族的特質の解明」というようなある種のグランド・セオリーを打ち立てようとする方向性はあるものの、網野さん自身は必ずしもそれを提示しない。それまでの歴史学界の通説を覆すような大きな提言をいくつもしながら、みずからグランド・セオリーを打ち立てなかった。通説を徹底的に破壊するのだけれども、新しい理論を構築しているわけではない、と桜井氏は指摘している。

網野史学の受容と批判

 ある意味「未完の学説」である網野氏の仕事を、さらなる研究を進めることによってさらなる成長を遂げていくという側面がある。そうした中で、「無縁」論は網野さんの成果を批判的に継承する形でさらなる研究が進展し、「さらなる成長」を遂げられたと言える分野だと桜井氏は述べる。

 

無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))

無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))

 

  その「無縁」論が展開された書物であり、歴史学界の内外で大きな反響をよんだとされる名著『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』。『網野史学の越え方』に所収されている小路田泰直氏の報告「網野史学の越え方について」のなかで、そのインパクトの理由は以下のように説明されている。

  1. 1970年代まで歴史学界で大きな影響力をもったマルクス主義的歴史学の拘束から歴史学を解き放ったこと
  2. 冷戦崩壊後への人々の予感に見事にこたえたこと
  3. 歴史の原点に原始共同体ではなく「原無縁」という名の「原近代」を措き、歴史を「原近代」の衰弱と蘇生の歴史としてとらえる見方を提示したこと

 この3点のなかでも小路田氏は最後の、「原近代」としての「無縁」というアイデアに大きな意義を見出しているが、どうもこれは網野さんの発想を大きく超えるもののようだ*1。無縁をどうとらえていくのか、という問題に関しては、資本主義との連関から考えたりなんなりと、いろいろあるようです。

 

 一方で、自身の著作の中で「壊れたレコード」と自嘲気味に語りつつも*2その重要性を強調してきた「水田中心史観」批判、「百姓=非農民」という考え方は、十分に受容されてこなかったそうだ。これに関する網野さんの姿勢には、「水田中心史観」批判のために一気に漁民などを取り扱うのは性急に過ぎる、という指摘が中世史の研究者である木村茂光氏なんかからも提出されていたりするので*3、まあ検討の余地があるのかなーと素人なりに思ったりもするんですが。

 また、マルクス主義的歴史学への距離をとろうとしたあまり、その概念用語の使用を避けた網野さんの姿勢が、現代の歴史学における研究の個別細分化の流れを作ったのでは、という指摘も桜井氏はしている。小路田さんの以下の文章にも強く表れている。

 最近の歴史学の潮流で私が気になるのは、歴史を、それを書いたり、読んだり、記憶したりする、受け取り手の主観に左右されることの多い物語としてとらえる発想が広がりすぎて、歴史そのものの発展を問題にしようとする人が極端に減少してきていることである。人が何のために歴史を書いたり読んだりするかということについては、多くの人が関心を抱くが、人が書いたり読んだりしている対象である、歴史そのものに内在する発展の法則や、あるいは変化の必然については、ほとんどの人間が関心を示さない。そのことが気になる。

(中略)

しかし歴史はやはり演繹の学ではなく、経験の学である。歴史それ自体の中に内在する発展の法則なり、変化の必然を問題にしないのであれば、存在する価値がない。

小路田泰直「刊行にあたって」『網野史学の越え方』pp1-2

 

  この文章が書かれてもう10年以上になるけれども、グランド・セオリーへの展望ってどうなってんだろうなー。明確にこれだ!みたいなのが出てくる時代でもないとは思うんですが、まだまだ僕たちは網野史学を越えようともがいてもがいて、という状況なのかもしれないなー、なんて。今出てる『岩波講座 日本歴史』あたりで研究動向をさらっと知りたいなとは思います。

 そんなわけで、新たなグランド・セオリーを構築するためにも、今こそ網野さんを読み返そう!(適当)

 

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

 

 

 

*1:「全体討論」より

*2:網野善彦宮田登『歴史の中で語られてこなかったこと』。以下の記事はかつての自分の感想。網野善彦 宮田登『歴史の中で語られてこなかったこと 』を読んだ - 宇宙、日本、練馬

*3:木村茂光『ハタケと日本人』