ここ数週間、強烈に「小林秀雄を読まなければいけない気がする」とぼんやり考えながら生きてきたんですが、今日やっと『モオツァルト・無常という事』を読み始めまして。その最初の一篇「モオツァルト」、これにやられた。完全にやられた。以下でその感想と、それから考えたよしなしごとを。
批評の真髄は、事実を超えた「真実」を描きだすことである
ぶっちゃけ僕はこの本を読み始めたとき、小林秀雄さんの代表作っていうか、なんとなくその名前を聞いたことがあった「無常という事」まではさらっと読み飛ばそうかなーと思っていたんですよ。クラシック音楽には詳しくないし、興味はあるんだけど特段情熱をもって耳を傾けたことってないので、別にモーツァルト論とかに心ひかれないし。
いや、あさはかだった。「モオツァルト」の何がすごいかって、モーツァルトという天才の「真実」、事実を超えたところにある「真実」の一側面を確かに描いている、そう感じさせる「何か」があるから。これこそまさに批評という営為の真髄に他ならないと、打ちのめされたような思いがあったからで。
いや、「事実を超えた真実」ってなによってという疑問はあって当然だと思います。「真実はいつもひとつ!」のコナン君からしたら、事実はつまり即真実であり、両者の区別は問題にはならない。ここで「事実」と「真実」を区別して使っているのは、僕が歴史学を学んでいてそのものの見方になじんでいるから。歴史学的に考えるならば、事実と真実を混同してはならないのです!
事実と真実の違いってなんぞやっていうのが気になる方は、遅塚忠躬『史学概論』を読んでください。
というのもあれなんで、ざっくり僕なりに説明すると、事実とはあくまで現在に残された史料から読み取れる事柄。たとえば1800年のパリの小麦の価格がいくらだったとか、1765年にどこそこでこんな法律が出されたとか、それに対して反乱がおきたとか。これらが記録として残っていれば、それらはまあ事実として存在したこと、起こったことでしょうと。
これに対して真実とは、残された史料からでは決してわからないこと。1765年に印紙法が出されたことに端を発して起こった反乱は、実は法律が出されたこととは全く関係なく、ある一個人、ジョージ・ワシントンさんのの気まぐれから起こったことかもしれない。しかしそれを示す証拠=史料がなければ、どうやってもその一個人の意図なんてわかりようがないわけですよ。いや証拠があったとしても即断はできないですよもちろん。印紙法がアメリカ独立戦争の端緒となったという通説も、丹念に因果関係をたどっていけばどこかで命がけの跳躍をしてるのかもしれないですよ。しかし通説ってことはまあ妥当なんでしょうきっと。
そんな強固な通説があったとしても、ジョージ・ワシントンという一個人の意図や意志によって反乱が生じたかもしれない、そう信ずる人があってもいい。
しかしその解釈はもはや事実の領野を遠く離れ、不可知の「真実」の場所へと降り立ってしまうわけですよ。それを裏付ける証拠=史料がないかぎりは。その「真実」が迫真性をもつのなら、多くの人はそちらに正当性の軍配をあげるかもしれない。しかしそれでも歴史学という営為は、その真実に一足飛びに飛びつくことはできんのですよ。それが如何に迫真性をもとうとも、史料に裏打ちされた事実と、史料を超えた真実との区別がないとだめってわけですよ。
過去を生きた人たちの喜びや楽しみにしても、苦労や苦しみにしても、正確にはわれわれはそのごく一面しか推察できないのだ、という限界についての謙虚な自戒が、歴史を問うにはまず必要だと私は考えている。
福井憲彦『歴史学入門』p8
「限界についての謙虚な自戒」。歴史を学ぶ人間の美徳をまさに濃縮したかのごとき一節だと僕は思うんですね。
ここら辺の文章はあげた例もロジックもまじであれな感じなんでどうか遅塚さんの本とか福井さんの本とかをお読みください。
それで、小林秀雄の文章には、史料の裏付けなどなくても、モーツァルトの真実を間違いなく描き出している。いかに史料に基づいたモーツァルト伝を書き著しても、これ以上の迫真性は得られないんじゃなかろうか。誤解が生じるとあれ何で、歴史学が劣っているとかそういう話ではまったくないことは一応。土俵も目指すものも異なるわけですから。歴史家の禁欲の果てに浮かび上がる事実、因果関係もまた大きな価値がある。
しかし正直に言わせてもらえば、史料に制約され禁欲する歴史学に対して、想像の翼を広げて真実をぐわしと掴みかかる批評という方法に、心を奪われなかったと言われればウソになる。その飛翔の輝き。この一瞬の輝きを自分の手で生み出せる瞬間を目指して、批評家という人間は文章を書くんじゃないか。そんなことを思ったわけです。
モーツァルトはジン=フリークスであり、平賀=キートン・太一である
でそのモーツァルトの真実とはいったいなんなのか。それは以下の文章に端的に表れていると思う。
芸術や思想の世界では、目的や企図は、科学の世界に於ける仮定の様に有益なものでも有効なものでもない。それは当人の目を眩ます。或る事を成就したいという野心や虚栄、いや真率な希望でさえ、実際に成就した実際の仕事について、人を盲目にするのである。大切なのは目的地ではない、現に歩いているその歩き方である。
(中略)
モオツァルトは、目的地なぞ定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外な処に連れて行かれたが、それがまさしく目的を貫いたという事であった。
小林秀雄「モオツァルト」『モオツァルト・無常という事』pp.60-61
この生き方、これこそモーツァルトという人間の生をこれ以上なく要約しているのではないかと思うんですよ。目的地なんぞ問題にもならない。歩くこと自体を「楽しむ」。僕はモーツァルトという人について『アマデウス』を通してしか知らないし、そんな人間が真実だのなんだのと論評するのはあまりにも馬鹿げているかもしれない。しかしこのモーツァルトの生の迫真性。それに胸を打たれた自分がいることは間違いなく事実で、それは僕にとってこの小林秀雄の批評が真実たり得たということなんじゃなかろうかと思う。
このモーツァルトの人生で僕が連想したのは、なによりもまず『HUNTER×HUNTER』のジン=フリークス。
モーツァルトもまた、「道中楽しみたい」という一心に貫かれた人間だったんじゃねーかなと。より私たちに近づけるなら、『MASTERキートン』の主人公、平賀=キートン・太一も。人生を楽しむことの達人ってわけですからね。とはいっても、彼が「道中楽しみたい」という境地に達したのは、多分ラストのあの一瞬じゃなかろうかという気もするんですが。そんなことを考えたよって感じですね。ただいま酔っぱらいながらキーをたたいたので支離滅裂だと思います。また加筆したりなんなりするかもしれない。
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