フランク・キャプラ監督『スミス都へ行く』(原題:Mr. Smith Goes to Washington)をみた。1939年に公開されたこの映画をなんで今更見ようと思いたったのかというと、先日読んだ佐藤卓己『メディア社会―現代を読み解く視点 』で紹介されていたから。僕は面倒くさがりなので、名作だと知ってはいても半世紀以上前の映画となるとなかなか手が伸びないんですが、これ何かの縁だと思ってこの機に意を決して見ました。以下で簡単に感想を。
テンポの良い編集、ひたすら続く「しゃべり」、そして俳優の魅力
ボーイスカウトの指導者だったジェファソン・スミス青年は、任期中に死亡した議員の代わりとして、偶然政界に担ぎ出されてしまう。スミス青年を、腐敗した政治家たちは政治に疎い適当な人物だとみなしたわけだ。しかしスミス青年は偶然にも、地元のダム建設をめぐるきなくさい陰謀を知るに至り、それに対して昂然と戦いを挑む。
こんな筋で、スミス対腐敗した政治家、そのバックにいるメディア王という構図で話が進んでいくわけですが、これが大変面白かった。まずなによりテンポがいい。軽妙な会話劇のなかで次々場面は進行し、まったく退屈しない。というか退屈を感じる暇がないほど登場人物がしゃべるしゃべる。『ソーシャルネットワーク』並み。これ台詞を文字に起こしたらとんでもない字数になるんじゃねーかと思いながら観てました。それと台詞のないシーンの編集がめちゃくちゃスタイリッシュで、それも印象的だった。スミスの真実を伝えるため奔走する地元の少年たちと、それを冷徹に阻止するメディア王の息がかかった大人たちを描いたシーンなんか息もつかせぬものがある。
で、悪と戦うスミス青年演じるジェームズ・ステュアートのたたずまいがまた素晴らしくて。ただ立っているその姿さえどことなく「正義のオーラ」を放っているように見えるというか。ジェファソン・スミスというある種ウソ臭いほど理想的な人物に見事に説得力を与えている。だから彼が決死に演説を続けるクライマックスのシーンはもう手に汗握るスリリングさで。というわけで、半世紀以上の時を経てなおまったく色あせない作品だなと。
ジェファソン・スミスの両義性
そういうわけで、とても面白く見たんですが、さきにあげた『メディア社会』のなかで佐藤さんもおっしゃっているように、ジェファソン・スミスの勝利は単純に民主主義の勝利とはいえないというか、恐ろしいものへと踏み出してしまう可能性をも示唆しているように思いました。
ジェファソン・スミスは、おもに少年たちから熱狂的ともいえる支持を受け、彼らはほとんどの場面でスミスの擁護者として立ち現われる。この少年たちの支持は、おそらく、スミスが「守るべき自由」や「誇り高き、しかし失われているアメリカの理念」を擁護していることとはおそらく関係がない。スミスその人自身の魅力こそ、まさに彼らを、そして観客をも魅了する要因になっている。スミスの擁護するものが、アメリカ的な自由でなかったら?もっと「アメリカ人の血」や「アメリカの国土」だったら?
その「血と土地」という発想はまさしくナチス・ドイツのよって立つものに他ならないが、ジェファソン・スミスの口からそれが語られるシーンが幾度かある。彼が推進する、キャンプ場を建設して都市の子どもを呼び込み、アメリカの理念や土地について教育する、というプランは、ナチス・ドイツとの親近性をはらんではいないだろうか。
ジェファソン・スミスの存在は、民主主義の胚胎する可能性の両面を映しだしているという意味で、常にアクチュアルな像として存在し続けるんじゃないだろうか。それこそがまさしく、『スミス都へ行く』が名作として語り継がれる理由なのかな、とか思ったりしました。
映画とは全く関係ないですが、7月ごろに設置したアクセスカウンターが今日1万をまわってました。うれしいなあ。
【作品情報】
‣1939年/アメリカ
‣監督:フランク・キャプラ
‣脚本:シドニー・バックマン
‣出演
- ジェフ(ジェファソン)・スミス:ジェームズ・ステュアート
- サンダース秘書:ジーン・アーサー
- ペイン上院議員(汚職議員):クロード・レインズ
- ジム・テイラー(企業家、黒幕):エドワード・アーノルド
- ホッパー州知事:ガイ・キビー
- ディズ・ムーア:トーマス・ミッチェル
- 上院議長:ハリー・ケリー
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