最近『ヒカルの碁』についてぼんやり考えたり考えなかったりしてたんですよ。『ヒカルの碁』のどこらへんが好きかって、ヒカルが院生になって、プロを目指すあたりが僕は好きなんですよ。僕も(日本棋院と関係なんてないけど)同じ「院生」として、「囲碁でプロを目指すゲーム」「囲碁で最強を目指すゲーム」で一心不乱に勝利を目指す彼らの姿がひたすらまぶしい。大学院が「研究者を目指すゲーム」「素晴らしい研究の達成を目指すゲーム」の場でもあることを考えると、彼らと僕は意外と近い立場にいるんじゃねーかな、なんて思ったりもして。自分が院生であるうちに、そんなことやらをつらつら書いとこうと思います。
『ヒカルの碁』は、誰も「ゲーム」から降りない物語である
僕は大学院に進学したけれども、別段研究者になりたいと思って進学したわけではないし、今もそれは変わっていない。でも目に入る院生はみんな研究者を目指しているような気がして、大学院という場にありながら「研究者になるゲーム」から撤退してしまった、ある種の半端ものとしての自分をひしひし感じるわけです。つまり僕は「ゲーム」から降りてしまったんだなあ、と。
一方、『ヒカルの碁』に出てくる登場人物は、「ゲーム」から決して降りない。『ヒカルの碁』で徹底して争われるゲームは、端的にいえば「囲碁で最強を目指すゲーム」だろう。それは「神の一手」の希求と言い換えてもいいかもしれない。それに向けて歩みを進めるヒカルと佐為、そしてアキラなどなどの面々は、「ゲーム」を降りる発想はない。佐為が消えた後のヒカルの放心も、結局再び「ゲーム」の舞台に上ることを再び選びとるための準備でしかなかったと思うし。
描かれないところで葉瀬中囲碁部の面々なんかは「囲碁で最強を目指すゲーム」から降りているんだろうけど、それはあくまでヒカルの物語にとっては添え物でしかないんだから。その点、「卓球で最強を目指すゲーム」に命を賭ける男たちが、それでもそのゲームから降りる瞬間を温かく描いた『ピンポン』と対照をなすかもしれない。
神の一手を極めんとするヒカルを主人公にした以上、ゲームから降りる人間たちを描くことはできなかったんだろうと。それをしてしまっては、ヒカルのドラマは輝かないというか軸がぶれてしまうというか。
「奈瀬明日美の碁」―「ゲーム」と選択
しかし『ヒカルの碁』にも、「ゲーム」を降りるかもしれない人間たちのドラマは書きこまれている。それは単行本18巻、奈瀬明日美を主人公とした一篇。1部と2部の間奏曲の役割を担う18巻は、様々な登場人物にスポットを当てた短編集的な構成となっているんですが、奈瀬明日美をメインに据えた回が、まさしく半端者の「ゲーム」との葛藤を描きだした傑作回だと思うわけですよ。
ヒカルがプロ試験に合格したのち、ライバルとして競い合ってきた院生たちは本編からフェードアウトしていく。奈瀬もそのフェードアウトした院生の一人なわけですが、彼女のその後が明らかになるのがこの一篇。
奈瀬は翌3月に院生をやめ大学受験に向かうという院生、飯島良との会話がきっかけに、年下のヒカルや和谷やらがプロ試験に合格したという事実になんとなく虚脱感を覚える。そこで彼女はこんなことをもらし、実際に院生研修をサボってデートに。
「あーあ、私もやめちゃおっかなァ、院生」
そのデートで囲碁に人生を賭けてきた自分と、「フツーの子」との世界の違いを思い知らされ、そして自分を魅了する囲碁の、そして「囲碁で最強を目指すゲーム」の魅力を再確認するわけだ。
奈瀬と「フツーの子」とのすれ違いなんかはコメディとしてフツーに楽しいと思うんですが、やっぱりこのお話のキモは彼女が、「囲碁にどうしようもなく惹かれる自分」を再発見する、というところだと思うんですよ。そしてこう宣言する。
「フツーの子と付き合うの難しいわ。私当分院生でいる」
プロ試験を経て大きな挫折感を味わった彼女が、それでも院生であることを選び直す。多分彼女はプロにはなれなくて、囲碁で飯を食っていくことも難しいことも自分で痛いほどわかっている。それでも、院生でいる。多分それは、彼女にとって囲碁がこの上なく魅力的だから。
この彼女の選択に、どうしようもなく救われたような気がするんですね。別に、その道のプロになれなくたっていい。なれないことはわかっていても、それでも好きだから、「ゲーム」に関わり続ける。ある種のモラトリアムがここでは肯定的に描かれている気がして。だから僕も当分、といってもあと1年ちょっとしかありませんが、たとえ素晴らしい研究成果なんて残せなくても、研究者になれなくても修士の分際で何言ってんだって感じだと思うんですが、院生でいてみよっかな、なんて思ったりしたのでした。
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