「日常」と「非日常」の曖昧な縁―アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』と『涼宮ハルヒの消失』に関する雑感 - 宇宙、日本、練馬
先日『涼宮ハルヒの消失』を見返して以来、ぼんやりとハルヒについて思いをめぐらしていたんですが、どうも震災のことが頭から離れなくて。その震災というのは95年の阪神淡路大震災と、東日本大震災の両者のことなんですが。それについてちょっと思うところを書き留めておこうと思います。
大震災とハルヒ
アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』の舞台が、兵庫県西宮市近辺だと言うのは周知の事実だと思います。西宮市固有の特徴というか、地理的なことには明るくないんですが、それでもひとつ、明確に連想される出来事がある。それは、阪神淡路大震災。『涼宮ハルヒの憂鬱』においては、「閉鎖空間」という現実とは隔絶されているかに思われる空間内の出来事に凝縮されてはいるけれども、「世界が終るような出来事」はたびたび顔を出し、故に『涼宮ハルヒの憂鬱』と西宮市は破局=カタストロフとの関係では独特の位相をもっている。
そんなことを考えている人はやっぱり僕以外にもいらっしゃったようで、ググってみると考察記事が何本か出てきます。
涼宮ハルヒと阪神淡路大震災についての邪推をとりとめもなく - 後天性無気力症候群
こちらの記事では、谷川氏の震災前の風景へのこだわりを指摘し、それがアニメの舞台選択に影響を及ぼしている可能性を論じています。しかし、作品そのものへの影響については否定的。
ただし、私は「涼宮ハルヒ」の作品内容が阪神淡路大震災の影響を受けているとは思いません。谷川流さん自身が学生だった頃の光景を再現したいのではないでしょうか。と言いつつ長門のマンションはかなり新しいですが。
一方、こちらの記事では先のエントリ先のコメントから発想を得て、阪神淡路大震災とハルヒとの関連をこう推理している。
ハルヒの舞台は、震災が遅延したパラレルワールドの2***年の西宮なのではないか、というのがその仮説だ。そう、ちょうどユーゴ紛争が2000年に発生するという設定の幻の『さよなら妖精』古典部ヴァージョン*2のように。
もし、この仮説が正しいとすれば大震災はこれから起こることになる。幻想とも怪奇とも無関係で、ただただ暴力的な力によって世界が崩壊するという出来事は、ある意味ではハルヒの幕切れにふさわしいのではないか。角川スニーカー文庫編集部がそれを許すかどうかはまた別の話だが。
僕はこれは全然的を外していないような気がして。「震災が遅延した西宮」なのかはさておいて、「暴力的な力」による幕切れとまではいかないまでも、作中で決定的な破局が描かれる必然性があったんじゃないか、とは思う。その論拠は、2011年6月を最後に、原作の新刊が出版されていないことが一番大きい。
上の記事で、谷川流氏のインタビューが引用されているんですが、それも震災とハルヒとの関係を推測するヒントとして使っても、元のページがリンク切れになってるので、孫引きすると
兵庫県生まれで、阪神大震災で被災した経験を持つ。
「その時痛感したのは、人は他人の痛みに鈍感だということ。でも、僕だってそれまで他地域の災害は人ごとだった」。谷川さんの中でも何かが「変わった」のだろうか。
東日本大震災の傷が未だ癒えぬなかで、カタストロフを描くことはできるのか。多分、それは被災した経験を持つ谷川さんにはできないんじゃなかろうか。結局のところ、それは谷川さんにしか、いや谷川さんにもわからないことなのかもしれませんが。
それに関連して、この記事のトップにリンクを張り付けた『涼宮ハルヒのユリイカ』に収められている社会学者である佐藤俊樹さんの論考「涼宮ハルヒは私たちである」の一節は、『涼宮ハルヒの憂鬱』を無邪気に楽しんできた私たちに痛烈に刺さる。僕にはこの文章の鋭さがどうにも堪えがたく。それがこの文章をつらつら書いている理由なんだけれども。
涼宮ハルヒの裏の顔とは、要するに、巨大地震の暗喩である。実際、「大きな振動」だの「断層」だの「歪み」だの、ハルヒの裏の顔を形容する言葉は3・11以来、この列島でくらす全ての人間が否応なしに付き合わされているものばかりだ。
そんな物語を本当に今、やるの?巨大津波さながらにコンクリートづくりの校舎まで破壊していく巨人の姿を思い出して、どうするの?楽しんでおれるの?笑っておれるの?わくわくしていられるの?
本当に日常を生きれるのか、希望は語れるのか
佐藤さんの文章は『涼宮ハルヒの憂鬱』に内在するカタストロフの存在をえぐりだすわけだが、それにとどまらない。上で引用した一節で終わっていたらどれほど気が楽だったか。涼宮ハルヒの裏の顔が巨大地震であったらどんなによかっただろうか。しかし残酷にも、「涼宮ハルヒは私たちである」は、その先にある風景を、まさに私たちに突き付けてくるのである。
涼宮ハルヒの裏の顔は、本当は、巨大地震ではないのではないか。むしろ、「巨大災害後」という想像を楽しんできた私たち自身ではなかろうか。
「巨大災害後」を楽しむこと。それは災害そのものを楽しむより、ある意味ではたちが悪いのかもしれない。そのいずれも巨大災害の渦中にいないものだけが持つ特権には違いない。しかし、「巨大津波さながらにコンクリートづくりの校舎まで破壊していく巨人の姿」を楽しむことは、そこに恐怖やなんやら、ネガティブな感情が付随するような気がする。一方、「巨大災害後」を楽しむという特権は、災害によって結局は何も奪われなかったものだけが、ネガティブな感情が脱色された楽しみを享受してはいないだろうか。「巨大災害後」を楽しむという行為は、それを楽しむことの特権性を自覚した途端、私たちの日常そのものが暴力性を持ってしまいさえするような、おぞましいものなんじゃないか。
巨大災害は、人の人生を修復不可能なほど破壊する。それをわかっていて、お前の人生が何も変わらなかったのをいいことに、それを楽しんでいたんじゃないか。災害後でも日常は変わらずあるなんて勘違いをしているんじゃないか。そう問いを突き付けられている気分になったわけです。これはもう佐藤さんの文章の論旨からは遠く離れているんですが。
なんでこんなことを思ったかというと、それは先日自分が書いた感想がかかわっていてですね。
「日常」と「非日常」の曖昧な縁―アニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』と『涼宮ハルヒの消失』に関する雑感 - 宇宙、日本、練馬
ここで論じた「日常」を選択できるという発想そのものが、震災後にはもう無化されているんじゃないのか、そんな無邪気な発想そのものが、「「巨大災害後」という想像を楽しんできた私たち自身」の蹉跌なんじゃないかとか、いろいろ考えてしまったわけです。キョンは、異常な、危機的状態にあっても、みずからの道を能動的に選び取ることができた。しかし「巨大災害」下の人間はどうか。そこにはおそらく選択の余地なんかなくて、そう考えるとそのキョンの選択すらも無邪気で暴力的というか、そんな意味を与えてしまう読み方を自分はしていたんじゃないか。
佐藤さんの論考は、「希望と生きる意味」を語る物語として、『涼宮ハルヒの憂鬱』が愛されてほしい、という願いを託して結ばれている。だから、「希望と生きる意味」をこそ、作品のなかに読み取りたいと僕は強く思う。まだ考えは全然まとまっていないというか、五里霧中なのですが、そんな読みがしたいという抱負を述べて、とりあえずハルヒにまつわるこのとりとめのない文章にひとまずの区切りをつけたいと思います。
大震災後に希望を語るということについて
こんな文章を公にしていいのだろうかとの思いが強くあったので、こんな夜中に更新したんですが、書きとめてみてやはりおれがこんなことを書いていいのか、という思いは強まる一方というか。僕は阪神淡路大震災も、そして東日本大震災も当事者ではない。今は「当事者の時代」だなんだといってみたところで、僕は当事者ではないということは変わらない。当事者でない人間が、恐れ多くも震災について語っていいのかというためらいが強くある。でも、頭に浮かんだことをなんとか外に出力してみないと、いつまでも自分の思考が整理できない気がした。だからこの文章は、徹頭徹尾僕のために書かれている。チラシの裏にでも書いとけって話ですね、はい。
思い返してみたら、エヴァとかピングドラムとか、この震災後に希望を語ることをまさに実践していると思うんですよね。そこらへんの作品もちょっとそういう角度から読みなおしたいと思いました。はい。
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関連?
米澤穂信『さよなら妖精』を読んで、結構重なる部分があるんじゃねーかと思ったりしました。
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『さよなら妖精』の主要人物が再び事件と対決する『王とサーカス』は、まさしく佐藤の問いに答えようとしたもの、として読めるのでは。
amberfeb.hatenablog.com
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