ここ一週間ぐらい、だらだらとジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ著、宇野邦一訳『アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症』河出文庫版を読んでいました。序盤を読んでるときは意味不明すぎてぶん投げようかとも思ってたんですが、読み進めると意味不明にも関わらず引き込まれるような感覚があり、わりと没入してしまいました。いや、意味はわかってなかったんですが。一応読了したので、自分なりにメモ的なものを残しておこうと思います。全体の構造とかとてもはつかめていないので、断片を記していく感じになると思います。
オイディプス・コンプレックスへの批判
本書の中で執拗に繰り返されるのは、精神分析への批判、ジークムント・フロイトの提唱した オイディプス・コンプレックス(エディプス・コンプレックス)への批判である。オイディプス・コンプレックスとは、息子が母親を手に入れようと思い、また父親に対して強い対抗心を抱くという、幼児期においておこる現実の状況に対するアンビバレントな心理の抑圧のこと。この抑圧によって、精神分析家は患者の状態を説明しようと試みてきた。
その試みに対して、ドゥルーズ=ガタリは強い批判を投げかける。オイディプス・コンプレックスという眼鏡を通して人間をみることによって、多様でありうる人間のあり方を一面的な図式にねじ込んでしまう、というのがその批判の骨子にはあるように思われる。あらゆる人間を家族という「ミクロコスモス」に閉じ込めてしまうこと。そのことに対する批判が、本書を貫いている
オイディプス的分析は、錯乱の内容を執拗に粉砕し、これを全力で「父の象徴的空虚」の中につめこんでしまう。*1
こうした図式が人間を「抑圧」している、というのがドゥルーズ=ガタリの認識であるように思われる。
問題は、オイディプスが偽りの信仰であるということではなく、信仰が必然的に偽りのものであり、現実の生産を曲解し窒息させるということである。だから物事をよく見る人とは、信ずるところが最も少ないひとたちなのである。*2
オイディプスはひとつの妥協でさえ、なく、抑圧に奉仕し、抑圧のプロパガンダや普及に奉仕する観念にすぎない。*3
未開人、野蛮人、文明人
オイディプスによる抑圧が生じた原因とは、オイディプスの歴史的起源とはなんなのか。それを説明するため、ドゥルーズ=ガタリは、哲学的な世界史像を提示して見せる。その壮大な世界史が語られるのが、「第3章 未開人、野蛮人、文明人」。
彼らは、世界史・人類史に三つの区分をもちこむ。マルクス主義的唯物史観を読み替え(多分)、彼ら独特の用語法で名指されるその区分が、原始的大地機械、専制君主機械、文明資本主義機械である。それぞれの特徴を簡潔に列挙すると、以下のようになる。
- 原始的大地機械:未開、 コード化
- 専制君主機械(帝国機械) :野蛮、超コード化
- 文明資本主義機械:文明、脱コード化・再コード化
的を射ているかはわからないが、僕なりに流れを整理する。国家、社会なるものは国家が二つの基本的な行為から始まる「居住の定着による、いわば領土性の行為」、「小さい負債の廃棄による、いわば解放の行為」である、とドゥルーズ=ガタリは言う。このような秩序の形成が、おそらくコード化という用語で名指されるものではなかろうか。
それぞれに独自の秩序を作り上げ(コード化)してきた封建的な社会(原始的大地機械)の上に、それを強大な力で中央集権化(超コード化)する専制君主機械が登場する。専制君主は「大地の記号を抽象的な記号に代え、大地そのものを国家の所有の対象とし、あるいはその最も富裕な臣下や官吏たちの所有の対象にする」*4。それら中央集権化(超コード化)され専制君主の制御下におかれたかにみえた資本、剰余価値は、やがて普遍的な流れを生み出していく。こうして、土地や資本は人の作った尺度を離れていく(脱領土化・脱コード化)。
文明は、資本主義的生産における流れの脱コード化と脱領土化とによって定義される。あらゆる方式によって、この普遍的な脱コード化が可能になる。*5
私たちの現代社会は「もろもろの器官の大々的な私有化から始まったのであるが、これは、抽象化した流れの脱コード化に対応している。」*6という。
この文明資本主義機械は極限であって極限ではない、アンビバレントな状態とされる。
資本主義があらゆる社会の外部の極限であるのは、資本主義それ自体は外部の極限をもたず、ただ資本そのものという内部の極限をもち、資本主義はこの極限に到達することはなく、つねにそれを置き換えながら再生産するからである。*7
この「置き換えながら再生産」する運動は、脱コード化・脱領土化し資本や土地を再び、コード化・再領土化することで、自ら安定を保つ、と言い換えられるように思われる。
文明化した現代社会は、脱コード化と脱領土化の過程によって定義される。ところが現代社会は、自分が一方で脱領土化するものを、他方では再領土化するのである。*8
あんまり本筋とは関係ない気もするが、このような状況下におけるブルジョワジーを、憐れみと侮蔑をこめて彼らは描きだす。これが分裂症と対置されるパラノイアの典型といえるのかもしれない。
ここには、もはや主人さえ存在しない。いまはただ奴隷たちが他の奴隷たちに命令を下しているだけである。もはや、外から動物に負荷を与える必要はない。動物自身がみずからに負荷を与えるからである。*9
ブルジョワは、最低の奴隷よりももっと奴隷的であり、飢えた機械の第一の服従者である。資本を再生産する動物であり、無限の負債を内面化するものである。*10
資本主義機械はなぜこうした形で安定を保とうとするのか。それは、根本的な極限たる「分裂症」へと到達するのを防ぐためである。その分裂症(スキゾフレニー)のプロセスこそ、器官なき身体を備える可能性を秘めているのである。
分裂症は資本主義そのものの外的極限、つまり資本主義の最も根本的な傾向の終着点だが、資本主義はその傾向を抑止し、この極限を置き換えて、これを自分自身の内在的な相対的極限に代えなければ機能しえない。資本主義は拡大する規模において、この相対的極限をたえず再生産するのだ。*11
「資本主義は相対的な極限であり切断であるにすぎない」一方で、「分裂症は絶対的な極限であり、これは、もろもろの流れを、器官なき身体の上の自由な状態に移行させる」。
こうして、オイディプスによる社会的な抑圧が要請されるようになるのである。多分。
欲望と革命
オイディプスによって抑圧される欲望の機能を、ドゥルーズ=ガタリは徹底的に称揚する。
欲望が抑圧されるのは、どんなに小さなものであれ、あらゆる欲望の立場は、社会の既成秩序を糾弾する何かを含んでいるからである。だからといって、欲望は逆に非社会的であるわけではない。そうではなくて、欲望は何かを覆すのである。社会のもろもろの部分の全体を吹き飛ばすことなしに、措定される欲望機械などありえない。ある種の革命家たちがどう考えるにしても、欲望はその本質において革命的なのである。*12
抑圧されるものは、欲望的生産なのである。この欲望的生産から、社会的生産や再生産の中に移行しないものが、抑圧されるのである。抑圧されるものは、社会的生産や再生産の中に無秩序と革命を導入するもの、欲望のコード化されないもろもろの流れである。*13
まともなひとたちはいう。逃げてはいけない。それはよくないことだし有効ではない。改革をめざして努力しなければならない、と。しかし、革命家は知っている。逃走は革命的で、引きこもりや気まぐれさえも、テーブルクロスを引っぱって、システムの一端を逃げ出させるのなら革命的である。*14
ゆえに「生産の社会的形態は欲望的生産に対して本質的な抑制を行使する」わけであり、オイディプス的な抑圧が要請される。その中でひとは、二律背反的な状況に置かれることになる。
ある意味で、ひとは自分自身が抑圧されることすらも欲望しているとさえいえる*16。
資本主義は、このように脱コード化した流れの上に作動するということを述べたが、流れをコード化し超コード化する原始的システムや野蛮的システムに比べても、それ以上に資本主義は欲望的生産から、はてしなく遠ざかっているというこの事態は、どうして成立するのか。*17
答えは、死の本能であるが、本能とは一般に、ひとつのシステムにおける生産と反生産の関係によって歴史的社会的に規定される生の諸条件のことである。*18
こうした欲望の革命のための道具立てが、「分裂分析」ということになるんだろうか。とりあえず時間があれなのと、理解もあやふやなのでひとまず中途ですがここまでで。また追記するかもしないかも。
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*1:『アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 上』p.318
*2:『アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 上』p.206
*3:『アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 上』p.322
*4:『アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 上』p.371
*5:『アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 下』p.59
*6:『アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 上』p.269
*7:『アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 下』p.34
*8:『アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 下』p.84
*9:『アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 下』p.77
*10:『アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 下』p.78
*11:『アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 下』p.62
*12:『アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 上』p.223
*13:『アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 上』p.327
*14:『アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 下』p.120
*15:『アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 下』p.89
*16:岡本裕一朗氏は、これを「欲望のパラドックス」と名指していた。ドゥルーズだけでなくフーコーすらも突き当たったこの袋小路は、未だ解決されていない課題として残っている、というのが岡本氏の認識であるように思われる
*17:『アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 下』p.222
*18:『アンチ・オイディプス: 資本主義と分裂症 下』p.223