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〈虚構〉に溶けていく「私」――『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』感想

GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊 [Blu-ray]

   新劇場版公開までもう一月もないんだなあ、とふと思って、なんとなく押井守監督『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』を見返しました。何度見ても、やはり面白い。なかなか得難い静かなカタルシスがあり、すげえ映画だなあと改めて思います。以下で簡単に感想を。

 街に溶けてゆく「私」

 『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』は、主人公である草薙素子が、ゴーストをもつAI・人形使いとの邂逅を経て、進む道を定める物語だ、とまずはいっていいんじゃないかと思う。進む道を新たに定めるということは、それまで自身を縛っていた拘束から自由になるということであり、不安から解放されるということでもある。

 士郎正宗の原作版と比べて、草薙素子ははるかにストイックでメランコリックな人間として描写される。彼女はどこか陰をたたえていて、それがバトーをひきつけるんだけれども、しかし一定の圏域内には寄せ付けない。彼女の煩悶は、バトーとの会話のなかではっきりと吐露される。

草薙「便利なものよね。その気になれば体内に埋め込んだ科学プラントで血液中のアルコールを数十秒で分解して素面に戻れる。
だからこうして待機中でも飲んでいられる。それが可能であればどんな技術でも実現せずにはいられない、人間の本能みたいなものよ。
代謝の制御、知覚の鋭敏化、運動能力や反射の飛躍的な向上、情報処理の高速化と拡大、電脳と義体によって、より高度な能力を獲得を追求したあげく最高度なメンテナンス無しには生存できなくなったとしても文句を言う筋合いじゃないわ」
バトー「俺達は9課に魂まで売っちまったわけじゃないんだぜ」
草薙「確かに退職する権利は認めるられてるわ。この義体と記憶の一部を謹んで政府にお返しすればね。

人間が人間である為の部品はけして少なくない様に、自分が自分である為には、驚くほど多くのものが必要なのよ。他人を隔てる為の顔、それと意識しない声、目覚めの時に見つめる手、幼かった時の記憶、未来の予感、それだけじゃないわ。
私の電脳がアクセス出来る膨大な情報やネットの広がり、それら全てが私の一部であり、私という意識そのものを生み出し、そして同時に私をある限界に制約し続ける

 電脳化・義体化技術によって生身の人間よりはるかに優れた知覚や身体能力を得た代償として、自身とそうでないものの区別は曖昧になり、それが彼女を苦しめる。退職して自由を得たとして、「義体と記憶の一部」を奪われた「私」は「私」と呼べるだろうか?その問いに、おそらく草薙素子は否と答えるだろう。

 彼女の自身の存在をめぐる曖昧さが端的に表われているのが、彼女がよく使用する光学迷彩だ。この世界で光学迷彩がどれほど普及しているかは定かではないが、作中の要所要所で印象的に使われるそれは、自身とそれ以外のものとの境界の曖昧さに苦しむ彼女の存在の位置を端的に表している。

 

 アバンパートで、某国の外交官を射殺した草薙は、光学迷彩によって姿をくらますわけだが、この時、彼女はあたかも街に溶けてゆくようにその姿が見えなくなる。

 

 

〈虚構〉を受け入れ、外に立つ

  自分のものであるはずなのに、身体も記憶も、もはや自身の所有物でないと規定されてしまう矛盾。そのような記憶や身体は、はたして本物といえるのか。それは虚構のものにすぎないのではないのか。

 電脳化社会に生きる人々にとって、記憶が「本物」である保証はどこにもないのだということは、人形使いをめぐる事件で強く印象付けられる。清掃局の男があれほど切実に愛したはずの娘、その記憶すら捏造されたものだったという悲劇は、草薙素子に何を刻印したのだろうか。それは社会の、ひいてはその中に生きる自分自身にのっぺりと張り付いた〈虚構〉の感覚ではなかっただろうか。

 〈虚構〉にまみれた社会、そして自身の存在を明確に自覚する中で、彼女は自身の存在のあり方に煩悶し、それが死が明確に意識される水中へと彼女をいざなう。それは多分、〈虚構〉にあふれた社会のなかで、死だけが真正な「本物」の感覚を呼び覚ますものだからだ。そのことは、人形使いが「死の可能性」を得るために素子との接触を試みたことからも裏付けられる。

「私達は似たもの同士だ。まるで鏡を挟んで向き合う実態と虚像の様に」

 人間とAI。自然と人工。本物のゴーストをもっているだろう草薙と、擬似的なゴーストラインが確認できるだけである人形使い草薙素子は電脳世界に人並み外れて適応した人間とは言え、両者には巨大な懸隔があるようにも思われる。しかし人形使いは、草薙素子を自分と似ているという。

 その二人の類似というのは他でもない、死を通して「本物」に接近せんとする二人の志向を指してのものじゃないか。それを船上の草薙素子からかぎ取ったからこそ、人形使いは声を発さずにはいれなかった。

 そしてその人形使いとの融合によって、草薙素子の存在の不安は解消される。なぜならもはや、彼女は〈虚構〉のなかにはいないからだ。

 アバンパートでは、彼女は街のなかにいた。街のなかから街を見下ろす場面から、草薙素子の物語ははじまる。

 しかし人形使いとの融合を果たした彼女は、もはや街のなかにはいない。「ネットは広大だわ」と呟く彼女は、街の外から街を見下ろす。

 いやそこにバトーのセーフハウスがあったからじゃんとか、そういうことではないのだ。街の外に出たという事実こそが重要であり、象徴的なのだ。彼女を溶かして自身と一体化させた街の外に、彼女は出た。

 人間を本物とするなら、プログラムにゴーストが宿っただけの存在にすぎない人形使いは、〈虚構〉だといえる。しかし〈虚構〉が〈虚構〉たりえるのは、本物の似姿でもあるからだ。全く似ても似つかないものを、人は偽物とはよばないし、それは〈虚構〉たりえない。

中村「何を語ろうとお前が生命体である証拠は何一つない」
人形使い「それを証明することは不可能だ。現代の科学は、未だに生命を定義する事が出来ないのだから」

 それが本物と区別を付け難いという意味で、人形使いはある意味窮極の〈虚構〉なのだ。「私」が「私」であることにこだわり続けた草薙は、その窮極の〈虚構〉を受け入れることによって、本物/〈虚構〉という問題系のなかから脱け出した。そして彼女は、〈虚構〉の象徴たる外部に立ったのである。

 そう考えると、続編たる『イノセンス』は、どうしても本物/〈虚構〉という問題系の外部に出れない男の物語なのかなあ、とか思ったりしました。そこら辺を軸に作家論みたいなことが言えたり言えなかったりするのかもしれない。ビューティフルドリーマーとかもろそんな感じだし。

 〈虚構〉の感覚、みたいなものは、作中のテクノロジーの発達で先鋭化はしているとはもちろん思いますが、決して架空のものではない。

 見田は1980年代以降の雰囲気を、人々の感覚から〈虚構〉の時代をと名付けたわけだけれども、この作品が公開された95年も、まさに〈虚構〉というものが特有なリアリティをもって語られた時代、といっていいと思う。見田の知見についてのより詳しいメモは以下を参照してください。

見田宗介『社会学入門―人間と社会の未来』メモ - 宇宙、日本、練馬

 だから草薙素子の、ひいては後のバトーの抱える問題って決して「私たち」の問題とも無縁ではないのかなー、みたいなね。はい。まとまらないのでやめときます。 

 

関連

 

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 〈虚構〉に煩悶した、という意味では草薙素子は『機動警察パトレイバー2 the Movie』の柘植行人の再演なのかも。柘植は〈虚構〉のなかにそれでも確かに残るリアリティの前に敗れ去ったが、草薙は違う道を選んだ、みたいな。

 
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リキッド・モダニティ―液状化する社会

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【作品情報】

‣1995年/日本

‣監督:押井守

‣脚本:伊藤和典

‣原作:士郎正宗

‣演出:西久保利彦

‣作画:沖浦啓之黄瀬和哉

‣美術:小倉宏昌

‣出演