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折木奉太郎の死角――アニメ『氷菓』「愚者のエンドロール」編感想

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  夏なので『氷菓』、「愚者のエンドロール」編が見直したくなり、みていました。確かな良さがあった。せっかくなので適当に感想を書き留めておこうと思います。

 折木奉太郎の死角

 ある夏の日。千反田えるにつれられて、文化祭で上映されるという映画の試写会に向かった古典部の面々は、未完の映画というひとつの「謎」と対面する。その未だ書かれざるミステリー映画の結末を巡る物語が展開されるのが、「愚者のエンドロール」編というわけだ。

 「愚者のエンドロール」編を端的に要約するならば、折木奉太郎が謎を取り逃がす物語だ、ということができるだろう。折木は推理によって一つの結論を導き出すものの、本来彼が掴もうとしていた脚本担当の本郷真由の意図を取り逃がし、まったく別の物語を創作して/させられてしまう。

 それには様々な要因が考えられる。とりわけ、折木に狙いを定めて「推理作家」を演じさせようとした「女帝」入須冬実の巧みな誘導は重要な要素だろう。

 本郷は、クラスメイトに脚本と違っているから取り直せとは言えなかった。彼女は気弱で真面目だった。アンケート結果を無視したことを後ろめたく思っていたとおもいます。

 そこで入須先輩、あなたの登場だ。このままでは本郷は悪者になってしまう。だからあなたは本郷を病気にし、脚本を未完成にした。そしてクラスメイトを集め推理大会を開いた。

 だが、実際はシナリオコンテストだった。みんなのシナリオの出来がよくないとわかると俺たちまで巻き込んだ。誰も、俺も、自分が創作しているとは気づかなかった。あなたによって見方を変えられていたからだ。そして俺の創作物は本郷の脚本にかわり、彼女は傷つかずにすむという寸法です。違いますか。

 入須が、折木の言葉を借りるなら「見方を変える」という戦略をとったのは、ある意味必然的。なぜなら、「本郷の真意」を読み解くことは必ずしも事態の解決には結びつかないからである。小道具班の善意からでた改変や、クラスメイトの望んだ結末が、もはや「本郷の真意」からでた脚本を成立不可能にしていたのだから。入須による問題設定のすり替えは、折木の失敗を導くのに大きな役割を演じたことは否定できない。

 入須によって「見方を変えられていた」という側面は無視できないにしても、それだけにすべてを帰するのは一面的に過ぎる。入須の介入以上に、折木自身の無意識化の欲望、先入観こそが、彼の推理における錯誤を導いたといえるのではなかろうか。彼の無意識にとっていた視角こそが、まさしく彼の死角を形成し、本郷の意図を誤って再構成するという「失敗」を招いた。

 折木が着目するのは、あくまで映画と脚本。それを推測するのが目標なのだから、その視角は妥当といっていい。しかしそうしたいわばモノに着目した折木がおそらく無意識のうちに軽視していしまったのが、ヒトなのである。

える「本郷さんは、自分から脚本に立候補されたのですか?」 

沢木口「いや、他薦だったよ」

える「ミステリーにしたのは?」

沢木口「それも多数決」

える「そもそもビデオ映画になったのは」

奉太郎「なんかズレてきてないか

える「でも私、気になります」

  話題が作品から離れることへの違和感を表明する折木。折木がヒト=本郷にさほどの注意を払っていないことは、上で引用した場面より前のこのやり取りからも感じられる。

える「本郷さんはあまり丈夫な方じゃなかったんですか?」

中城「そうだな。学校を休むことも何度かあったし、撮影にも出てこなかったし」 

奉太郎(脚本の執筆に苦しんでて出られなかったんじゃ)

  折木は本郷の事情について入須の説明をそのまま受け入れ、それ以上の興味を抱くことはない。本郷の意志については紋切り型の理解で事足れりとする態度。これが結局は折木奉太郎にとって致命的な死角をなすことになり、結果誤った結論にたどり着くことになったわけだ。折木は「本郷の意図」を無視して結論を創作しようとしたわけではない。「万人の死角」の結論を導いた時も「これが本郷の真意だ」と独白しているし、里志との会話でも「本郷の案」だと応答している。しかしにもかかわらず、本郷自身への目線は決定的に欠けていたのである。

 

愚者の慧眼

 謎を取り逃がした探偵折木と対照的に、もっとも「本郷の真意」に近づこうとしていたのは、「愚者」に喩えられた千反田えるだ。彼女は第9話「古丘廃村殺人事件」で、3人の推論を聴く中で、執拗に本郷真由がいかなる人物だったかを尋ねる。

 それは推理のアプローチとしてありえる手法だともいえるが、その前から、千反田の問題設定は、入須の依頼そのものからは若干ズレているようにも感じられる。問題設定の次元が、「結末はどのようなものか」という視角から「本郷の真意」を問うた折木とは別のところにあるのである。

える「なぜ本郷さんが、信頼と体調を損ねてまで途中で脚本をやめなければならなかったのか、私、気になります!」

える「江波さんは、本郷さんと親しかったんですか?」

江波「どうしてですか?」

える「いえ、ただあの脚本を書かれた方がどのような方だったか、気になるだけです」

  折木の出した結論は、摩耶花にも里志にも疑義を呈されるわけだが、その二人には折木はしどろもどろになりながらも若干の反論を試みる。しかし千反田えるのそれには反論を加えない。

 俺が映画の真相を見抜こうとしている間、千反田は本郷のことを考えていたのか。

 俺はどうだ。あの脚本をただの文章問題と見ていたんじゃないか。舞台設定、登場人物、殺人事件、トリック。「さて 犯人は この中にいます」。俺は脚本に本郷の気持ちがこめられているなんて考えもしなかった。全く、たいした探偵役だ。

 かくして折木奉太郎は、自身が決定的な過ちを犯していたことを悟る。しかしすべては遅きに失した。「万人の死角」はすでに撮り終えられ、作品として完成をみてしまったのだから。

幻の「ミステリー(仮)」

 折木奉太郎は取り返しのつかない失策を犯したわけだが、しかし千反田の掬い取っていた視角から得た情報で、ありえたかもしれない本郷真由の脚本は再構成される。しかし救いきれない残余はそこに残り続ける。

奉太郎「鴻巣が海藤を刺し、海藤が鴻巣を許した理由がわからずじまいだがな。本郷が口を割るまで謎のままだ」

える「それも仕方ないですね。人を刺すわけ、自分を刺した人を逃がすわけ、それを本郷さんがどう描こうとしたのか、とても気になりますが」

  トリックを明らかにしたところで、本郷の描こうとした「ミステリー(仮)」の核心部分は、誰にも知られることなく、本郷の(もしかしたら江波や入須も含まれるかもしれないが)心のうちだけにとどまり続けることとなった。救いきれない残余の存在は、『氷菓』全編を通して繰り返し繰り返し描かれつづけるのであるが、「愚者のエンドロール」編においては描かれなかった「ミステリー(仮)」の核心がそれにあたるだろう。

 それは関谷純の叫びの残響が学園祭の名にこだまし続けても、彼の真意を知るものはもはやどこにもいないのと似ている。

 他者の叫びを圧殺し、そして忘却してきた人々。それと同様の過ちを、折木奉太郎も犯しかねなかった。本郷真由という一人の人間の残した痕跡を消し去り、あまつさえ違う物語で書き換えてしまったこと。それをかつて関谷純を苦しめた人々の行いと重ね合わせたかは別にしても、失敗に対する深い葛藤は折木に中にあったに違いない。

 そこからのかすかな再起がアニメ版においては11.5話で描かれ、そして「クドリャフカの順番」編ではリベンジを果たすことになるのは、確認するまでもないことだろう。

補 探偵は愚者をとらえきれない

 「愚者のエンドロール」編は、折木と千反田のやりとりで幕を閉じる。

奉太郎「お前は今回の一件、何か知っていたんじゃないのか」

える「なにも知りませんでしたよ、どうしてですか?」

奉太郎「お前は探偵役全員の説に納得していなかった。いつものおまえらしくない。本郷への共感だけが理由なのか」 

える「ああ、なるほどです。えと、笑わないで下さいね」 

奉太郎「ああ」

える「私と本郷さんが似ていたからだと思います」 

  本郷と千反田を相似形としてとらえるとするならば、折木くんはまったく千反田さんをとらえ損ねてるってことになるのでは、とか思ったり。少なくともこの時点においては。

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