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失われた魂を求めて―映画『屍者の帝国』感想

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 『屍者の帝国』をみました。原作既読だったのですが、そこから話の筋を大きく変化させていて、単なる小説の映像化以上のものをみた、という驚きが。いや、唸りました。以下で感想を。ネタバレが含まれます。

 世界に死体が徘徊している

 19世紀末。ヴィクトリア女王治下の大英帝国には、いや世界には、ヴィクター・フランケンシュタイン博士の遺した技術によって蘇った、無数の死体が徘徊していた。屍者。そう名指され、使い捨ての労働力として戦場で、工場で、あるいは裕福な家庭で使役される生ける死体はしかし、フランケンシュタインの怪物、オリジナルの屍者=ザ・ワンには及ぶべくもない存在ではあった。フランケンシュタインの怪物が人間のように振る舞い、花嫁さえ求めたのとは対照的に、世界に溢れる屍者たちは自らの意志はなく、インストールされた命令に従うのみ。その懸隔を埋められる可能性を秘めた、ヴィクター・フランケンシュタインの遺した手記。屍者に真の魂を込められる、そんな技術を求める欲望が、ある青年に世界を駆け巡らせる。その青年の名はジョン・ワトソン。彼の傍らには、いまは屍者となってしまった親友、フライデーの姿があった。

 「おかえり、フライデー」。原作既読者がまずおったまげさせるその台詞に象徴的なように、映画版はフライデーの設定を大きく変え、ただの若い死者に過ぎなかったその身体に、かつてワトソンとともに屍者の研究に没頭していた親友、という意味を書き加えた。それによって当然のごとくフライデーとワトソンとの関係を軸にお話は再構築され、円城塔の書き継いだものを下敷きにしつつも、そこからストーリーは大きく書き換えられている。

 そんな風にストーリーは再構築されているけれども、伊藤が思い描き、そしてその若干を書き記した屍者の跋扈する19世紀末の世界描写は、小説の雰囲気をうまい具合に映像の形に変換しているように思われた。戦場の最前線では死体同士が殺し合い、単純な肉体労働にはやたら顔色の悪い連中が携わり、そして裕福な資本家の傍らには薄気味の悪い執事が鎮座する。かつて、100年以上も前にだけれども、確かに存在したはずの世界。それがひとつの技術を特異点として、未だかつて誰もみたことのなかった世界へと変貌している。それはSF的な想像力といってもいいと思うのだけれども、原作においてもそうであったように、映画版でもそれが遺憾なく発揮されていたように思う。

 そして屍体兵士は3ⅮCGの描写とこれ以上なくマッチしてて、3DCGで描かれる群衆のぎこちなさがそのまま屍者の動きのぎこちなさとリンクするのでこりゃすげえ、となりました。今年初めのノイタミナムービー『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス』では正直言ってかなりビミョーだった3DCGのモブの動きがすげえよかった。それと関係ないけど美少年の、とりわけ屍者の美少年の色気が異様。これはキャラデザの威力でしょうか。

 そんな意味では世界の描写は豊かだと思うのですが、一方で映像化に際してそぎ落とされたものもまた膨大。いかに原作の情報量が多かったのかわかろうというもの。伊藤さんの関心でもあり、円城さんの持ち味が発揮されまくったと思われる人の自由とは、意識とはなんなのか、ということについての仮説の開陳、思考実験なんかはバッサリとカット。加えて尺の関係もあってか登場人物が整理整頓され、(実在、非実在含めて)歴史上の人物盛り沢山な感じがちょっち薄れてしまった感。そしてアリョーシャとコーリャの結末なんかは、『カラマーゾフの兄弟』の書かれざる第二部につながらなそうな感じだったり(『屍者の帝国』自体がその書かれざる第二部なのかもですが)のはいささか残念な気もしますが、それをさっぴいても改変はかなりよかったです。

 伊藤計劃が遺したものを円城が書き継ぎ、そしてそれはアニメスタッフによってさらに語りなおされた。思い返してみれば、「求めたのは、21グラムの魂と君の言葉」というキャッチコピーにおいてそれはすでに宣言されていたも同じだったわけだけれども。映画版『屍者の帝国』は、魂の存在を追い求める者たちの物語ともいうべきものだから。

その魂の在処

 だから映画版で『屍者の帝国』の主役たりえるのは、親友の魂を求めるジョン・ワトソン、そして魂を失ってもなお技術によってワトソンの傍らにあるフライデー。それに魂を自らが持っていないと悩むハダリー・リリスを加えてもいいかもしれない。そうした3人によりスポットがあったことで、同じ魂を求めるものではあるけれども、ザ・ワンは相対的に存在感が後退し、原作で放っていた至上の存在感は薄れたような印象。その分、ドラマはワトソンとフライデーに集中する。

 主人公たちの旅路に同行し、世界中でワトソンを助けまくる二枚目バーナビーくんは、アクションでは見せ場満載だけどドラマ的には、うん、まあ、そうだよね。魂とかに頓着しなさそうなのは原作でもおんなじだけど、原作よりは人間関係が豊かな感じだった気はするし、アクションもどっかでみたことあるフランケンシュタインの怪物的なやつとガチでやりあったりとか、アクションはバーナビー君が背負っていた。

 話がそれた。原作では、語り手であり、そして結末で彼岸へと去るワトソン=伊藤、そしてそれを書き記す機械であり、結末においてのみ主体的な語り手として前景化するフライデー=円城という見立てが成立するんじゃないかと思うのですが、映画はその位置関係を、フライデーの設定を変更することによって見事に反転させている。若くして亡くなった俊英たるフライデーの姿にどうしても伊藤が重なってみえるし、その意志を継ぐ形で魂の存在を求めるワトソンのほうに円城が重なる。伊藤と円城は親友だった、という「物語」は『屍者の帝国』文庫版あとがきで円城が拒否しているけれども、どうにも映画版はそのような語りを誘発する構図があるように思えてならない。

 それはそうと、僕はあんまり理解がおいついていないので、魂を求める旅路の結末にどんな意味があったのか、それを言葉にすることはできない。作中何度も語られる、思考=魂は言葉に先行するというテーゼを僕は受け入れていないのだが、言語化できない何事かは確かにあるという気がする。それは単に僕の言語を操る力に問題があるからなのだけれども。とはいえ、伊藤計劃が亡くなって6年の歳月がたってもなお、彼の遺した物語がこうして語れらていて、そこには実在とか非実在とかを飛び越えて魂の存在を物語たくなってしまうような気分があります。

 

 どうにも歯切れが悪いですが、映画『屍者の帝国』、大変面白かったです。原作を再読したらまた感想とか書き足すかもです。

 

関連

伊藤計劃トリビュート』、もうひとつの『屍者の帝国』、伴名練「フランケンシュタイン三原則、あるいは屍者の簒奪」が収録されているので強くお勧めです。

 

 

 

 

屍者の帝国 (河出文庫)

屍者の帝国 (河出文庫)

 

 

 

 

 

 

 そういえば、あのMは誰だったのだろう。マイクロフトではなさそうだし、モリアーティの席はすでに埋まってるわけだし、まさかヴァン・ヘルシングではないだろうし。

 

【作品情報】

‣2015年/日本

‣監督:牧原亮太郎

‣原作:伊藤計劃円城塔

‣脚本:瀬古浩司、後藤みどり、山本幸治

‣キャラクター原案:redjuice

‣キャラクターデザイン:千葉崇明

総作画監督:千葉崇明、加藤寛

‣出演