『完全なるチェックメイト』(原題:Pawn Sacrifice)をみました。『ブリッジ・オブ・スパイ』といい、最近冷戦映画が熱い。以下適当に感想を。
冷戦。そう呼びならわされるアメリカとソ連という超大国間の戦争は、直接にはその二国が戦火を交わすことなく戦われた。核兵器という偉大なる発明が、二国間の戦争と世界の終わりとを結びつけたがゆえに。よってその戦争は様々な代理を立てて行われた。その代理とはすなわち、時に東と西のはざまにおかれた国の人々であり、時に宇宙開発に携わる技術者であり、時に己の身体と技量の向上に命を懸けるアスリートたちであった。幼き頃よりその天賦の才を煌めかせてきたアメリカ人、ボビー・フィッシャーもまた、その代理戦争の尖兵の一人となる。彼が戦争の手段とするのはチェス。対するはソ連の誇りを背負う最強のチャンピオン、ボリス・スパスキー。冷戦という戦場のふたつのポーンが、互いのすべてを賭け、アイスランドはレイキャビクで激突する。
そんな感じの物語が展開される『完全なるチェックメイト』は、ボビー・フィッシャーの幼少期からその名声が絶頂に達する瞬間までを捉えた伝記映画のような色合いが強いな、と感じた。僕はチェスは駒の動かし方すら知らないのですが、それでも全然問題なく楽しめたのは、チェスのゲームそのものよりボビー・フィッシャーの人生の物語だったからじゃないか。
天才ボビー・フィッシャーは強迫的に神経質な人間としてカメラに収められていて、気に入らないことがあるとすぐに物事を放り出す。ソ連の選手と比べてホテルがぼろいことにブチギレ、報道陣に苛立って渡航をドタキャンなどなど奇人っぷりを示す挿話によってフィルムは彩られている。ボビー・フィッシャーは、自身の静寂を妨げる騒音に何よりも苛立つ。その騒音に対する苛立ちは幼少のみぎりより強調されていて、ペンの走る音、観客席の咳払い、カメラのフィルムが回る音、エトセトラ、エトセトラ、一時に気になりだすともう集中することはできず、それが敗北に結びつく。とはいってもそれによって不快な雰囲気というか、深刻な雰囲気にはならない。頻繁に挿入される60~70年代の音楽が全体の雰囲気のトーンを一段上げているという感じがして、そのバランス感覚が心地よい。これがもっとボビー・フィッシャーの不安とかに寄り添っていたらしんどかったなと思います。
ボビー・フィッシャーが自身の神経を癒すために縋り付いたのは、宗教、それも過激な陰謀論をその骨子にすえるあやしいやつだった。彼の部屋のカセット or ラジオからは反共産主義的、もしくは反ユダヤ的な言説が垂れ流されるようになり、彼の後援者たちを辟易させる。すべてユダヤ人が糸を引いている!ユダヤのせいで世界がヤバイ!的などう考えても理性的ではないものに、彼がなぜすがったのか。それは陰謀論の構造とチェスというゲームの性質の類似性にあるんじゃないか。
陰謀論の構造的な特徴は、あらゆる事象を単一の原因に帰着させることにある。その単一の原因とはときにユダヤ人であり、ときに共産主義であり、ときに軍産複合体であり、ときにビンラディンであり...というようになんでも代入できる。その単一の主体がこの世の物事のすべてを裏で操っている、とするわけだけれども、それは論理的には不壊の構造をもつ。なぜなら、その反例すら、陰謀の主体がわれわれを欺くために流した情報だと解釈が可能だからだ。そのようにして陰謀論は、世界を単純化するものなのだ。
その明快さこそ、陰謀論とチェスとの接点なんじゃなかろうかと思う。チェスの選択肢は銀河系の星の数ほど多い、と作中で言及される。無数の可能性を、ゲームを進めるうちに駒を犠牲にしていくことでだんだんと縮減していく、という性質がチェスにはあるんじゃなかろうか*1。そしてそれが極限に達し、キングのもつ可能性が失われたとき、勝敗は決する。
その意味で、ボビー・フィッシャーは物事を単純化していく作業をあまりに身体に馴染ませすぎた。チェスに過剰に適応してしまったボビー・フィッシャーは、チェス的にしか世界を眺められなくなり、ゆえに世界を単純化して認識する陰謀論が、彼にとっては唯一正しい世界認識の方途になってしまったのである。チェスでは決着が着くたびごとに可能性が極限まで失われるわけだが、現実世界はそうではない。そこにボビー・フィッシャーと世界との折り合わなさの根幹があるのではないか。
冷戦のポーンは、自身の世界に対する豊かな認識を犠牲にすることで、チェスの世界では無敵になった。その意味では、ボビー・フィッシャーは冷戦の犠牲者というよりチェスの犠牲者なんじゃないか。『完全なるチェックメイト』はそんなお話だと思ったんですけど、こういう適当なこというとチェスやってる人に怒られそうですね。
こんな感じで大変面白かったです。
関連
熱い冷戦映画でした(矛盾)
『完全なるチェックメイト』をみるまえは『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』みたいな雰囲気なのかなーと勝手に思ったりしてました。
「碁はひとりでは打てんのじゃ」ってのが『ヒカルの碁』だと思うんですが、『完全なるチェックメイト』をみた印象だとチェスは自分の頭脳に深く分けいっていくゲーム、みたいな語られ方をしていたような。
完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯 (文春文庫)
- 作者: フランクブレイディー,Frank Brady,佐藤耕士
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2015/08/04
- メディア: 文庫
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【作品情報】
‣2015年/アメリカ合衆国
‣監督:エドワード・ズウィック
‣脚本: スティーヴン・ナイト
‣出演
- トビー・マグワイア - ボビー・フィッシャー
- シーマス・デイヴィー=フィッツパトリック - 青年期のボビー・フィッシャー
- エイデン・ラヴカンプ - 幼少期のボビー・フィッシャー
- ピーター・サースガード - ウィリアム・ロンバーディ
- リーヴ・シュレイバー - ボリス・スパスキー
- リリー・レーブ - ジョーン・フィッシャー(ボビーの姉)
- ソフィー・ネリッセ - 幼少期のジョーン・フィッシャー
- マイケル・スタールバーグ - ポール・マーシャル
- ロビン・ワイガート - レジーナ・フィッシャー(ボビーの母)
- コンラッド・プラ - カーミン・ニグロ
- エヴリーヌ・ブロシュ - ドンナ
- ケイティ・ノーラン - マリア
*1:これも、「なぜあの駒を捨てたのか?」という疑問に対して「盤面を単純化するためだ」みたいな解説がなされる場面が作中にあったので、そういうゲームなのかなーと思ったんですがどうなんでしょうか。