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正義はつねに遅すぎる――『スポットライト 世紀のスクープ』感想

ポスター/スチール写真 A4 パターンB スポットライト 世紀のスクープ 光沢プリント

 

 『スポットライト 世紀のスクープ』をみました。アカデミー賞作品賞を受賞するまでどんな映画なのかすら知らなかったのですが、受賞したわけだし見に行こうと。ミーハー。以下適当に感想。

  2001年、アメリカ、マサチューセッツ州ボストン。地域に根差した日刊新聞『ボストン・グローブ』紙の精鋭チーム「スポットライト」班は、新局長の命により神父による少年少女への性的虐待事件を取材するように命じられる。弁護士や被害者への聞き取りを進めていく中で、彼らは虐待が想像をはるかに越える規模でなされていること、そしてそれが教会というシステムによって隠蔽されていることに気付き始める。

 実話を元に、「スポットライト」班が教会のスキャンダルを記事にするまでの顛末を描く『スポットライト 世紀のスクープ』は、性的虐待、そして生活に深く結びついている教会の腐敗というセンシティブな題材を扱っている故か、過剰な演出は避けられ全体として非常に落ち着いた雰囲気の映画だったという印象。着々と事件の全容をつかみ裏をとっていく「スポットライト」班の仕事ぶりは、たぶん実際に記者という仕事の多くの時間はそういうものなのだろうな(と僕は勝手に思っている)というくらいに淡々と描かれる。映像的にもはっとするような美しい構図がバンバンでてくるとか、そういう類の映画では全然ない、と感じた。

 これは単調で退屈である、といいかえることができるかもしれないのだけれど、抑えたトーンでボストンという街をカメラに収めているがゆえに、普段生活している街のなかで、邪悪なものがうごめいているという落差がはっきり強調されてもいる、というような気がする。たぶん、ボストンという街、あるいはアメリカ合衆国という国に生きる人々にとって、教会という存在の大きさであったり身近さっていうのは、日本に生きるぼくらには想像が難しいほどには大きくて身近なものだと思うわけです。劇中でも、カメラがとらえる街の背景には、教会がはっきりと写し取られている。その教会が、弱者の尊厳を踏みにじった神父の罪を隠蔽しようと動いていたという事実。そのおぞましささは、淡々と人と街を映しているからこそ際立つのではないか。

 そのように日常に潜む悪。それは普段ははっきりと目には見えなくとも、それに気づく可能性は、その日常を生きている限りにおいてつねにある。最終盤において、マイケル・キートン演じる「スポットライト」班のデスク、ロビーが、その悪を暴くチャンスを知らず知らずに逃していたことが明らかになる。『ボストン・グローブ』が神父の性的虐待を報道しなかったのは、意識的に教会を守ろうとする内通者のような人間がいたからではなくて、単に機会を見過ごしてしまっただけだった。

 「スポットライト」班は「世紀のスクープ」で正義を為したかもしれない。しかしそれは遅すぎる正義だった。その悪にもっとはやくに気付けたかもしれなかった、しかし気付けなかった。ミステリにおいて探偵はたいてい殺人がなされてから動き始めるように、悪党が悪事を働いてからヒーローが現れるように、報道のなしえる正義はつねに遅すぎるのかもしれない。しかし、つねに遅すぎるからといって、正義をなさなくてもよい、なんてことはぜったいないわけで、今まで見過ごしてきた悪、それと戦うことには価値があるはず。そんな映画だったんじゃないかと思いました。はい。

 

 

関連

  なんとなく想起したのが去年読んで非常に心に残った『王とサーカス』でした。

 

スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪

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【作品情報】

‣2015年/アメリカ

‣監督:トム・マッカーシー

‣脚本:ジョシュ・シンガー、トム・マッカーシー

‣出演