宇宙、日本、練馬

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究極の虚構を撃ち抜く弾丸――『シン・ゴジラ』感想

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

 TOHOシネマズ新宿で『シン・ゴジラ』をみていました。いやこれはすげえもんをみさせてもらったなというのが正直な感想です。上映終了後、舞台挨拶があったわけでもないのに自然に拍手が起こった、というのは初めての経験でした。以下感想になりますが、ネタバレが当然含まれます。先の見えない宙づりの感覚こそこの作品の核にあるものだという気がするので、ネタバレは絶対避けたほうがよいと思います。ということで未視聴の方はその点ご留意ください。

「想定外」を越える想定外の危機

 東京湾羽田沖で、漂流中の船が一隻。海上保安庁が保護に赴くも、船内は無人、いくつかの遺留物が残されているだけだった。捜索のさなか、突如水面下から水蒸気が噴出する。その水蒸気によって東京湾アクアトンネルが破損したことにより、政府は対応を始めることになる。だが政府の、いや日本に住まう人々はまだ知る由もなかった。想像すら及ばない未曽有の危機が、もうまもなく訪れるのだということを。

 事件は会議室で起こってるわけじゃないが、巨大な決断はつねに会議室で下される。その会議室の決断が、現場の対応を決定づける。『シン・ゴジラ』は、そのようなトップダウンの命令系統によって形成される状況を、リアリスティックに、ときに戯画的にカメラにとらえ続ける。突発的な事故をきっかけとし、その会議室=政府の面々がマニュアル通りに、あるいは前例にのっとって行動を協議するなかで、しだいに事態が輪郭を露わにし始め、「巨大不明生物」の上陸という、誰も想像だにしない展開が生じつつあるということを認めざるをえなくなる。「現場」の状況を把握しなければ的確な判断は下せないが、その「現場」の状況を「会議室」はリアルタイムで把握することはできないという「現実」が、まず巨大不明生物という「虚構」と対峙せねばならない。この時点で、「現実/ニッポン」対「虚構/ゴジラ」の対決において現実が後れを取ることは必至。

 我々は「想定外」の事態が起こりうる、ということを理解してはいる。想定しない事態に対して備える、という形でその「想定外」に対する構えをとって我々は生きている。「想定外だ、よくあることじゃないか」という会議のなかでの発言は、そのことをはっきりしめす。

  しかし「想定外」の閾値を越える事態、「想定外」の想定外とも言いうる事態に対して、我々の社会は脆弱であるしかない。虚構=ゴジラの凶悪さは、「現実」を、すなわち我々が考える「想定外」の事態をはるかに圧倒する。予告では一切映らなかった、生理的嫌悪感を喚起するグロテスクなビジュアルはきわめてショッキング。あらゆる生物を超越した生物である、という禍々しい存在感が白眉。この第一段階のゴジラ東京湾岸をうろついて海へと還っていくのだが、ただ歩いた足跡が、そのまま我々の記憶に焼き付く災害の風景と重なり、ここで虚構が現実とリンクし溶け合って、虚構にリアルな存在感を付与する。

 

究極の虚構を撃ち抜く弾丸

 その破壊はいわば序章。巨大化し再び現われたゴジラは、自衛隊の攻撃もものともせずに東京中心部へと進撃。そして、米軍機の爆撃によるダメージが引き金となり、ゴジラは熱線を放射。東京は火の海となり、政府首脳は行方不明。生き残った人間たちは、米軍を中心とする多国籍軍の核攻撃によるゴジラの撃滅、つまりは東京への核攻撃という最悪の、しかしもっとも「現実」的なシナリオを回避するため、必死の戦いを続ける。

 ゴジラという「虚構」との戦いの中核を担うのは、巨大不明生物災害特設対策本部、略称「巨災対」の面々。各省庁・組織の変わり者、鼻つまみものを集結させたこのチームは、ゴジラと対決する「現実」にあって、きわめて現実離れした、すなわち「虚構」じみたキャラクターづけがなされている。科学的なアプローチでゴジラに接近、弱点を講じる尾頭ヒロミや安田の口調や身振りは、アニメーションに登場しても不自然ではないのではないか、と感じるほど極端に早口だったりオーバーだったりする。とはいっても彼らは「現実」から極端に浮き上がっているかというとそうではなく、会議室というシチュエーション、あるいは災害対策の現場というリアリティのなかに確実に溶け込んでもいる。「現実」のなかにたしかに生きる「虚構」、それこそが究極の「虚構」に対する銀の弾丸なのだ。

 とはいっても、「虚構」の力だけで打ち勝てるほど、究極の「虚構」=ゴジラは甘くはない。「虚構」たる彼らが最後の戦いに打って出、そしてその場で究極の虚構に打ち勝つためには、「現実」の確固たる足場もまた必要だった。その「現実」とはいったいなにか?それは日本の科学技術であり、また営々と整備され続けてきたインフラ=鉄道・ビル群である。そうした「現実」という火花が、「虚構」という銀の弾丸に火を付ける。戦後という歴史のなかで蓄積された無数の営みの集積が、究極の虚構を地面に打ち倒すこのクライマックスは、我々が生きる「現実」の奥底に根のように張り巡らされる力の凱歌なのだ。そのようにして、「現実対虚構」という枠組みは、単純に虚構の勝利とも、現実の敗北とも言い難い結末によって解体され、虚構と現実の混交物こそが、破局を回避し希望をつなぐ途を開きうるのだ、といういわば第三の道が開かれる。「虚構」を胸に抱いて、同時に「現実」の可能性にも目を開く。きっとそれこそが我々の行くべき道なのだ。あきらめず、この国を見捨てずにやっていくために。

 

 というわけで最高でした。最高。まだまだ劇場に足を運びたいです。

 

関連

 冒頭で消えるという仕方でしか姿を現さない、姿なき男がカギを握る、という点で実質『機動警察パトレイバー the movie』じゃん!!とひとりテンション上がっていました。自衛隊の治安出動/防衛出動うんぬんの下りは『パト2』的だしゴジラの設定も『WXIII』っぽいし、『シン・ゴジラ』は実質劇パト新作みたいなもんなのでは???(錯乱) まさかの新作発表と同日に公開っていうのも運命的ななにかを感じます。

 


 折り鶴がキーアイテムなあたり『トップをねらえ2!』みを感じるし音楽はエヴァだし、ガイナックスの遺伝子がこう、あれしてるなっていう

 

前情報で言われてたことですが、岡本喜八版『日本のいちばん長い日』リスペクトが全体に漂ってるよなーと。岡本監督自体もあんな形で登場してるし。


 

 

現代社会は再帰性が高まってるが故に、終末論的な世界観を生きねばならないという意味でのリスク社会である、という認識の上にこの映画はあるのかな、という気がする。現代社会の基盤には、抽象的な社会制度への信頼が必要不可欠である、というあたりも。この前読んだギデンズとかの議論をなんとなく想起。

アンソニー・ギデンズ『モダニティと自己アイデンティティ――後期近代における自己と社会』メモ - 宇宙、日本、練馬

 

NEON GENESIS EVANGELION [Analog]

NEON GENESIS EVANGELION [Analog]

 

 

 

【作品情報】

‣2016年/日本

‣監督:庵野秀明(総監督)、樋口真嗣(監督・特技監督

‣脚本:庵野秀明

▸出演