宇宙、日本、練馬

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滅びゆくこの我々――江波光則『我もまたアルカディアにあり』感想

我もまたアルカディアにあり (ハヤカワ文庫JA)

 

 新年の読書は江波光則『我もまたアルカディアにあり』からスタートしたんですが、これが非常に良かったので、感想を記しておきます。

  アルカディアマンション。世界の滅びに備えるためにつくられたというそこでは、居住者は働かずとも生活を保障されるという。働かずに餓死まで至るかに思われたひきこもりの男と、その男のもとに突如現れた妹を称する女とがそのマンションに入居を決めたとき、この滅びゆく世界で何事かが連綿と受け継がれていく物語が始まりを告げる。

 アルカディアマンションに男女が入居したときにはまだ我々が生きる現代と地続きに感じられた世界が、やがて環境汚染が進んでゆくなかで無数のシェルターのような施設のなかで人類が暮らす、現代とはかけ離れた世界へと変貌を遂げていく。そのシェルター群は、アルカディアマンションがそうであったように、人々の生存を確実に保証する。労働という対価抜きで。そこは閉鎖された楽園で、その外は開放的な地獄。そのようにして世界は終わりに向かっていくのだというヴィジョンが、この物語を貫いている。

 アルカディアマンションに入居した男はその変貌の始まりの部分を目撃することになる。その男の物語を屋台骨とし、そのシェルターのなかで生きる人々の挿話を差し挟みつつ、この滅びの物語は語られる。滅びに備えるという者たちは、備えるだけではあきたらず、自身の正しさを自ら示すために、自身の手によって滅びを招き入れる。しかしそんな人間の思惑とは無関係に、取り巻く環境が否応なしに人類に牙を剥き、一部の人類の期待をまさに成就させんとするかの如く、滅びへ向けて歴史に針を進める。

 こうしたペシミスティックな世界認識によって、この物語はドライブしていて、陳腐な言い回しになるしこんなことは言いたかないけど、2011年以降の皮膚感覚みたいなものが強く反映しているのではないか、という気がする。この滅びゆく我々――それは人間の意志を超えて進行するのだが、しかしそうやらその世界で生きる人間たちはさほど不幸でもなさそうである――の描写が、この作品を僕にとって忘れがたいものにしている、という気がする。

 ここからは作品を離れたおしゃべりですが、我々は滅びへと向かっている、という感覚は、おそらく『君の名は。』においても共有されている、と思う。

 『君の名は。』において、架空の街糸守は滅びの運命を免れ得ない。そこに隕石が落下して街は廃墟と化してしまう、という運命は回避することができない。そして、そのように街が消え去りうるのだ、ということは主人公の一人である瀧の心中に深い印象を残す。

 しかし『君の名は。』においてたとえ物事が消え去ったとしても、消え去りえない何かが必ず残る、ということが力強く語られたのと同様に、『我もまたアルカディアにあり』においても、すべてが滅び去る――それは結部においては男の「死」をもって暗喩される――瞬間においても、あるいはその瞬間のなかに、強烈に浮かび上がってくる何事かがあるのであって、それこそまさに価値があるものだということが語られ、物語は閉じられる。

 その価値あるものを打ち立てるためにこの長い旅路はあり、それはまさしく噓によって真実を語ろうとする試みとして読むことが可能だと思うし、その意味で、この『我もまたアルカディアにあり』は、いま・この日本という場所で語られるべきフィクションとしてある、と思う。はい、というわけで大変楽しませていただきました。

 

  嘘によって真実を語る、みたいなのは舞城王太郎の受け売りです。


 とりあえず『百年の孤独』と『ディスコ探偵水曜日』を読み返してえという気持ち。

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

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ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

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