『響け!ユーフォニアム』・『響け!ユーフォニアム2』は、何かを決めるとは、選ぶとはいかなることなのか、それはどのような意味を持つのか、そのような問いを提起した。その問いに対する回答の輪郭を粗描することが、さしあたってのこの文章の目的である。
「なんとなく」決めること
私たちが何事かを選ぶとき、そこにどのような機制をが働いているのか。それをおおざっぱに整理するならば、「なんとなく」選ぶか、「決然と」選ぶか、という両極を想定することができるだろう。私たちはたぶん、食事を選ぶとき、何か身近なものを買うとき、ぼんやりとテレビのチャンネルをザッピングしているとき、等々、おそらく「なんとなく」なにかを選び取っている。一方で、例えば自分の将来の進路を選ぶとき、高価な買い物をするとき、重大なことを他者に告げるとき、私たちは「なんとなく」は決めないだろう。そこに賭けられる感覚のことを決然さとここでは名指し、そのような行動を名指すとき「決然と」した選択と見做す。
もちろん、徹底的に「なんとなく」選ぶこと、あるいは徹底的に「決然と」選ぶこと、いずれも現実には想定しがたく、「なんとなく」選び取ることのなかにも「決然」たる要素は見出せるし、また「決然と」した選択のうちにも「なんとなく」性は混入してしまう。だから本来、私たちは「なんとなく」と「決然」とのあいだの無限に分割可能なグラデーションのなかで物事を選んでいる。とはいえ、どちらかといえば「なんとなく」選んだ、あるいは「決然と」選んだ、という区分けは可能であるだろうし、さしあたってこの二分法に依拠して、『響け!ユーフォニアム』における選択と決定の契機を眺めていこう。
主人公、黄前久美子が北宇治高校吹奏楽部に入部するところから、『響け!ユーフォニアム』の物語は始まるわけだが、そのきっかけは、「なんとなく」としか言いようのないものではないか。彼女が入部を決定するまでの時間を、1話「ようこそハイスクール」は提示するわけだが、画面のなかの情報だけでは、その明確な理由を跡付けることは困難だろう。高校での新たな友人との出会いによって、とか無意識に高坂麗奈という人間にひっかかるものを覚えて、等々、もっともらしい理由を説明することは可能だろうが*1、そうした理由に少なくとも僕は説得力を感じない。それは、1話で流れていった時間というのは、この黄前久美子の選択の「なんとなくさ」を強調するためにこそ費やされたのだと考えるからだ。彼女が過ごす日常のなかで、何事も彼女を突き動かす決定的な要因ではなかった、そのことを示すためにこそ、高校に入学してから流れていった時間が提示されねばならなかった。
そして彼女が入部した吹奏楽部は、彼女がそうだったように、概して「なんとなく」そこにいる人々で構成されていた。黄前久美子の選択の「なんとなくさ」は、彼女だけが背負うものではなく、その「なんとなくさ」は物語の上では彼女の選択から部の雰囲気へと流れ込んでいる、ともいえるのである*2。だから、彼女ら・彼らは目標を決める、ということの意味をほんとうには理解していなかった。いや、顧問である滝昇が、いかに目標を「使う」のか、ということに想像も及ばなかったに違いないのだ。
だから、彼女ら・彼らは「なんとなく」目標を定める。全国大会出場という目標を。その時の多くの部員の所作に、その「なんとなくさ」は滲み出る。遠慮がちに、恐る恐る賛成の挙手をするその所作に。その所作を共有していないものこそ、もはや「なんとなく」選んだのではなく、「決然と」選び取ってそこにいるのだということをもその場面は語っているのだが、さしあたってここで強烈な意味を持つのは、多くのものが「なんとなく」選んだ、選んでしまったということだ。「なんとなく」選んだ――「なんとなく」であれ、選んでしまったこと。まだ彼らはその意味を知らなかった。
「あななたちは全国に行くと決めたんです」
「なんですか、これ」。滝昇は北宇治高校吹奏楽部の演奏をこう評す。合奏になっていない、聴くに堪えない、指導以前のものであると。そして告げる。「あななたちは全国に行くと決めたんです」。だから最低レベルの演奏はせよ、と。自分たちが決めたことなのだから、それに責任を持て。そう言外に告げ、指導は中絶される。
この、「あななたちが決めた」というレトリックが、周到に準備されたものであることを私たちは知っている。滝昇は、先に述べた目標を部員が決定する、その場面から再三強調する。
「自主性を重んじるというのをモットーにしています」
「決めてください。私はそれに従います」
「私自身はどちらでも構いません」
ここで滝が「どちらでも構わない」というのがおそらく本心ではなかろう、というのは『響け!ユーフォニアム2』で語られた彼の過去を鑑みれば明らかであろう。だから彼は、部員の多くが「なんとなく」決める、そういう雰囲気のなかに生きることを利用して、自らの目的を吹奏楽部全体の目的のなかに滑り込ませたといえる。しかしここで本稿の関心において重要なのは滝ではない。
滝によって「なんとなく」の選択から、その「なんとなく」さをはぎ取られ、ただ「選んだ」ものとして、自身の選択を引き受けることを強いられた部員たちである。彼女ら・彼らの多くは「なんとなく」しか選ばなかった。しかしその「なんとなく」さなど、「選んでしまった」という事実の前では何の意味ももなたい。この選択を部員たちは引き受け、「全国大会を目指すゲーム」にその身を賭けなければならなくなり、そしてそれができないものは、もはや部に居場所がなくなる。
「なんとなく」選んだか、「決然と」選んだか、そんなことは問題ではない。選んだことを引き受けよ。そのように彼女ら・彼らに強いる滝。それははっきりいって残酷な仕打ちだったということもできる。それが部から脱落するものを出すことにはなったが、しかし現実にその目標に向かって着実に前進していくなかで、その残酷さは棚上げにされ、選んだことの責任を引き受けよ、ということがいかなる帰結をもたらすかは棚上げにされる。
しかしその残酷さは思いもよらないところで回帰する。黄前久美子の姉、黄前麻美子の物語が前景化することによって。大学を辞めると決意し、それがきっかけで両親と口論を繰り返す麻美子。彼女に対して、負担を強いてきたことを認めつつも父はこう告げる、告げざるをえなくなる。
「それでも大学に行くと決めて、受験したのはお前自身だ、違うか」
自分自身が決めたことを引き受けよ、という要請。吹奏楽部をめぐる物語のなかではいったん棚上げにされたその残酷さこそが、ここで黄前麻美子にのしかかる。麻美子はその選択を、自分自身で選んだのではなく、両親によってつくられた「空気」に強いられたものとして、この時点(8話「かぜひきラプソディー」)では意味づける。最早そこでは「なんとなく」選ぶことと「決然」と選び取るという二項対立は意味を失い、「選ばされた」ものとして、過去の選択が想起されるのである。その意味で吹奏楽部の選択と麻美子のそれとは等価ではなく、麻美子の帰結がより救いがたい雰囲気を帯びる。しかし、事後的にその選択における責任を引き受けよ、と要請されたことにおいて、両者の構図は相似形であり、作品世界における滝昇の「罪」の対価は、この黄前麻美子の物語によって贖われている、とさえ言いうる。そして黄前麻美子と同様に、北宇治吹奏楽部の田中あすかもまた、「選べなかった」人間としての輪郭が次第にあらわになっていく。
悪魔は笑う、我らも笑う
その黄前麻美子の物語の物語が、いかにして終わり、そして再び始まったのかを、私たちは既に知っている。「選ばされた」物語を、「何も選べなかった」物語として読み替え、そしてそれを引き受けて、新たなる物語を生きる。そのような仕方で、選択と対峙すること。また、田中あすかも、「選べない」という状況を自分の力でねじ伏せて、最後の舞台に立つ。
滝昇や黄前健太郎は彼ら自体が残酷なのではなく、そうしたレトリックを弄して私たちに選べ、そして引き受けよと要請する、そうした普遍的な機制こそが残酷なのだ。滝昇はその機制を狡猾に利用したかもしれず、多分黄前健太郎はそれを縁として娘と対峙するしかなかったという違いはあるのだろうが、いずれにしても、「あなたが決めろ」と囁きかけ笑う、そのような悪魔は彼らのうちにのみならず、おそらく私たちを取り巻くそこかしこに偏在しているのだ。そうして笑う悪魔は常に狙っている、「選択の責を引き受けよ」と喉元に刃を突き付ける機会を。
それに対して私たちは笑わねばならない。たとえ「なんとなく」選んだにしても、あるいは強制的に選ばされたにしても、まさしくそれこそ私たちが選んだものなのだと、不敵に笑わねばならない。私たちは選択をしてしまったという過去の事実自体は変えられないかもしれないが、しかし私たちは過去の選択を想起し、その意味を読み替えることはできる。たとえその時点では「なんとなく」選んだものであっても、その選択に様々な文脈を付与し、意味を読み替えていくことはできる。物語の終わりに、黄前久美子が自身の「始まりの場所」に、おそらくそれまでは気付くことのなかった姉の姿を見出したように。だから、「なんとなく」選ぶことと「決然と」選ぶことの境界は果てしなくあいまいなのだ。少なくとも、想起と追想によってその境界を塗り替えていけるくらいには。そのことを知る私たちは、だから悪魔に笑いを返すことができるのだ。
なんとなく肩に力を入れて文章を書きたい、という感じがあって、だから昨年8月末に劇場版ユーフォを見たときから、あるいは2期を見終えてから心のなかに抱えていた宿題をこういう形式で文章にしました。言い足りないし拙いけれど、言い足りなさと拙さとは、まあ引き受けて然るべしでしょう。これでなんとなく、あまりに実存よりな話題を除けば、いまのところ言葉にできることは言葉にしたな、という感じがあります。とはいえやはり自分にとって特別な作品であるのは間違いないだろうし、ということはまた再び立ち戻ってくるでしょう。10月の劇場版のときとかね。それまで精進を重ねようと思います。
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1期・2期・劇場版の感想。