『グレイテスト・ショーマン』みました。以下感想。
19世紀。まだアメリカという国がはるかに若かった時代。夢見る男は、いやしい生まれと育ちの悪さをさげすまれながらも、ショービジネスの世界での成功を目指す。
実在した興行師、P・T・バーナムの人生を、軽快な歌と踊りで彩った伝記ミュージカル映画。『ラ・ラ・ランド』とのスタッフの共通性が宣伝されていたが、ワンカットの長回しを多用して、古典的なミュージカル映画のような役者の身体の躍動を映していた『ラ・ラ・ランド』に対して、こちらは忙しくカットを割って外連味とはったりに塗れたフィクショナルな世界を現出させるような演出になっていて、感触はかなり異なる。
冒頭、ヒュー・ジャックマンのすらっとシルエットがスクリーンに映し出され、そのビシっと決まった動きにほれぼれするのだが、その印象的なルックと歌と踊りのパワーは強烈で、否応なしに心地よくなってくっる。とりわけザック・エフロン演じる新進気鋭の劇作家をバーナムが口説き落とそうとするバーのラップバトル(ラップバトルではない)は、小気味よく鳴り響くグラスの衝突音やら、しっかりアシストをきめるバーテンたちの所作の素晴らしい嘘っぽさが非常によかった。
お話自体は意外性もなく、こちらの期待が過不足なく成就する(主人公は成功するし挫折は仲間と一緒に乗り越えるし大団円を迎える)のでストレスフリーに快楽に身を委ねられる、かと思いきや、物事はそう単純ではなく、これはそのような出来合いの心地よいお話として消費してしまってよいのか、という疑念がつねに付きまとう。
その疑念は、それは結局バーナムの興行はすなわち「見世物小屋」的なものにほかならない、そのことから不可避的に生じてくる。「見世物小屋」的なものをとりまくまなざしの暴力性は、吉見俊哉『博覧会の政治学』を引くまでもなく、ここ30年くらいでさんざん指摘されてきたものであるからにほかならない。だからそれを、この21世紀に「家」として提示してしまってほんとうによいのか?それは見世物小屋的なものの周辺で働いていた象徴的な暴力を隠蔽する、歴史修正主義的な語りではないのか?
現実におけるバーナムの「地上最大のショー」の周辺で機能していたであろうまなざしと、私たちが映画であるとか様々なフィクションを眺めるときのまなざしは、もしかしたらさほど離れてはいないのかもしれず、だから『グレイテスト・ショーマン』の語りは、そうした「見世物小屋」的なまなざしといま・ここを切断しようとする私たちの欲望を撃つものなのかもしれないけれど、いやでもやっぱり、もうちょっとセンシティブな語りがありえたに違いないと思っちゃう。
バーナムじゃなくて架空の興行師のお話だったら…とも。
講談社は学術文庫の『博覧会の政治学』を再版してくださいという気持ち。
【作品情報】
‣2017年/アメリカ
‣監督:マイケル・グレイシー
‣脚本: ビル・コンドン、ジェニー・ビックス
‣出演
- P・T・バーナム…ヒュー・ジャックマン
- フィリップ・カーライル…ザック・エフロン
- チャリティ・バーナム…ミシェル・ウィリアムズ
- ジェニー・リンド…レベッカ・ファーガソン、ローレン・アレッド
- アニー・ウィーラー…ゼンデイヤ
- レテー・ルッツ…カーラ・セトル
- W. D. ウィーラー…ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世
- キャロライン・バーナム…オースティン・ジョンソン
- ヘレン・バーナム…キャメロン・シェリー
- ゼネラル・トム・サム…サム・ハンフリー
- コンスタンティン王子…シャノン・ホルツァプフェル