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ただ強さのみ――『ドラゴンボール超 ブロリー』感想

劇場版 ドラゴンボール超: ブロリー (JUMP  jBOOKS)

 『ドラゴンボール超 ブロリー』をみました。以下感想。

  男は飢えていた。いったい何に飢えていた?ただ、強さに。その飢えは、すでに完結したはずの物語の続きが、蛇足のように語られねばならないという商業的な要請によって捏造されたものかもしれない。しかしそんなことは些細なことだ。飢えた男はさらなる強者を求め、そしてこの映画のなかに、彼の求める圧倒的な強者が現れる。

 鳥山明の原作マンガを飛び越え、新たにアニメオリジナルの物語が語られた(らしい)『ドラゴンボール超』の劇場版は、過去の劇場版アニメの資源を、『ドラゴンボール超』の物語世界に組み込むという形で活かし、新たな物語を紡ぐ。

 しかし、そんな物語にどれほどの意味があるかといえば、それはもう潔いまでに「戦う理由」を捏造するためのお膳立てに過ぎず、つわものどもが殴り合いを始めた時点で「戦う理由」などというちんけな道具立ては吹き飛んでしまう。「強さ」の前では何の意味もなく、ただ強いか、そうでないか、どれだけ強いかという基準だけが作品世界で意味を持つ。

 惑星ひとつ破壊し、孫悟空の両親を直接殺害したフリーザ様、しかもその様子がアバンタイトルで長々語られたフリーザ様は、我々の常識的な道徳律――それは多くの娯楽映画を支配しているものでもある――に照らせば、どう考えてもこの映画のなかで誰よりも打倒されるべき敵であるにもかかわらず、そんなことは孫悟空らは意にもかいさず、ただ彼が強い好敵手であることだけを望むのである。ここにあるのは赦しなどというちんけなものではなくて、ただ「強さ」以外のものがまったく意味をなさない世界が我々の前に立ち現れているという圧倒的な事実だけがあるのである。その強さを引き出すために、悪逆非道の父があまりにもあっさりと殺害される場面は、この戦慄すべき恐ろしき世界の常識外れぶりが凝縮されている。

 そうして我々の前に、ただ動く絵として様々にあらわれる「強さ」こそ、この映画のアルファでありオメガなのだろうが、『マン・オブ・スティール』的な超人高速殴り合いに、アニメ的な外連味やエフェクトをバリバリに盛り込み、まさにこれだけで映画に引き込んでしまうようなものだったと思います。その意味で、この異形な作品世界を創り上げたこの映画の試みは、間違いなく成功であったと思います。すごい。