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凡庸な悪の肖像――『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』感想

【チラシ付き、映画パンフレット】ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生

 『ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生』を吹き替え版でみました。以下感想。

  第一次世界大戦後。大恐慌前夜。もはやあれほど巨大な戦争はくるまいと、多くの人々が安堵していたであろう時代。しかし、そのなかにはすでに、巨大な嵐の徴が仄見えていた時代。我々とは違う法則のなかで生きる魔法使いたちもまた、その嵐の前の凪のなかにいた。そして我々は、まさにその嵐が起こる瞬間を目撃するのである。

 『ハリー・ポッター』シリーズのスピンオフ2作目は、主要な舞台をパリに移し、新たな物語を紡ぐ。ホグワーツという箱庭を中心に編成された魔法世界を、海を越えてニューヨークにまでその外延を広げてみせた前作に引き続き、魔法世界は我々に新たな相貌をみせてくれるのだが、この『黒い魔法使いの誕生』ではそうした世界そのもののもつ生き生きとした楽しさはやや退潮し、危機の時代に立ち向かう魔法使いの姿が前景化する。

 危機の時代。それは我々がいままさに投げ込まれているこの時代を言いあらわす形容の一つであろうが、この作品の舞台、おおよそ100年前の魔法世界の姿は、奇妙なほどに我々のいまと共振している。ハリー・ポッターが立ち向かったヴォルデモートが、神話的で抽象的な邪悪だとするならば、『ファンタスティック・ビースト』のゲラート・グリンデルバルドは、まさしく我々にとってのいまという時代の、現代の悪の化身であろう。

 「我々」と「彼ら」のあいだに一線を引き、「彼ら」の所為で「我々」は不当な不利益を被っている。能力に優れた「我々」は、「彼ら」の上に立ち、教化してゆく使命がある。これはたとえばフランス植民地主義を駆動させた「文明化の使命」の中核とも読むことができるだろうし、第一次世界大戦後のパリという、まさに植民地帝国の中心地で語られた言葉として、そう読むことが妥当であるようにも思う。

 しかしそのおおよそ100年あまりあとに生きる我々は、そうした言説がある種の人々を慰撫し、そしてそうした人々の支持を背景に、この社会のなかに分断線が引かれている、そうした状況のなかにいるのであって、故にグリンデルバルドのアジテーションは、極めて不幸なことだが、我々のいまと絶妙に共振してしまう。彼は傑出した悪ではなく、凡庸な悪――無論、ハンナ・アレントイェルサレムアイヒマンを指したものとは全く異なるのであるが――なのであって、我々が身近によく知る悪なのだ。

 こうした悪をどのようにうち払えばよいのか。こうした問いに答えるのは決して容易いものではなく、またそれに対する答えがもしも空疎なものとして我々に感受されたなら、作品そのものの信頼を毀損することにもなる。しかし、そうした問いをあえて問い、引き受けた作り手と、作品が作り出す魔法が、微かな光を垣間見せてくれたらよいなと思います。

 

 

ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 映画オリジナル脚本版

ファンタスティック・ビーストと黒い魔法使いの誕生 映画オリジナル脚本版