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映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

悪人は本を読む――『女王陛下のお気に入り』感想

映画『女王陛下のお気に入り』 (オリジナル・サウンドトラック)

 ヨルゴス・ランティモス監督、『女王陛下のお気に入り』をみました。以下感想。

  18世紀初頭、イングランド。まだ王が王たるがゆえに権力を発揮できた時代。優柔不断できまぐれ、いかにも頼りなさげな女王は、傍に立つ公爵夫人に陰に陽に助けられ、日々を過ごしていた。女王とその幼友達。その公私にわたる強固な関係は、零落したのち底辺から這い上がろうとする女が屋敷に訪れたことで、大きく変貌しようとしていた。

 スチュアート朝最後の王女、アンをめぐる人間関係の暗闘を、下世話かつ上品なコメディタッチで映し出す。冒頭、糞尿の香りをまとって画面に登場する零落した貴族の娘、アビゲイルヒルは、物語上も王女とその腹心の関係性に侵入してくる異物であるのだが、エマ・ストーンという役者の、いかにも現代的な佇まい、表情、仕草――裏を返せば彼女以外の人々のそれらはいかにも近世的なリアリティをまとっているということでもあるのだが――は、まさしく彼女がこの世界において招かれざる客であり、また現代人が容易にこの異世界に感情移入するための縁でもある。この映画の魅力の一つは、極めてチャーミングなこの現代人が、異世界の人々を自由自在に弄んでゆく、その運動のおもしろさにある。

 彼女の表情やふるまいはいかにも現代的な雰囲気があり、それが彼女と他者をわかつ徴になっているのだが、そのほかにも彼女が決定的な特権を与えられ、この作品世界に君臨しているのだと知らせる徴がある。それは、彼女だけが、本を読む、この所作をあからさまに許された一人であるということであり、この映画は本を読む悪人が本を読まないその他のものどもの上に君臨する映画なのである。

 たしか前田愛が、我々が常日頃当然のように行っている黙読とは、日本列島においてはいかにも近代的な所作であり、近代以前*1は、人々は本を声に出して読み、それを周りの人間が聞く、という仕方で本を読んでいたという。しかしアビゲイルヒルは静かに本を読む。時に自室で、時に屋外で、そして密会がまさに行われようとする公爵夫人の部屋で。彼女が本を読むとき、彼女はこの作品世界をまさに特権的に読むことのできる高みにいるのであり、それは彼女の結末を先取りして暗示するものであり得るのである。

 アビゲイルの読む本は、そのほとんどが公爵夫人の蔵書であるのだが、その公爵夫人はといえば、その豊かな蔵書をこの作品のなかではおそらく読む機会を剥奪され、彼女にとって本とは、賢しらな女中を追い落とす言い訳をつくる道具であり、またその女中に物理的に投げつけ責めるための武器でしかない。ここでは公爵夫人はあからさまな劣位に置かれているのである*2

 しかし公爵夫人もまた、この映画のなかで特権をもつ人間ではある。アビゲイルが本を読む女だとすれば、公爵夫人は特権的に書く女であり、帳簿に署名をすることで権力を発揮し、そして最終盤では手紙によって自身の目的を果たそうとする。しかし、何度も何度も紙に文字を書きつけ、何度も何度もそれを丸めて捨てるという所作の、我々の生きる現代とは隔絶した古めかしさ。そしてもはや我々は、彼女のようには手紙を書く人間ではありえないという事実が、彼女の敗北を予告してもいるのである。

 そうしてこの映画は、手紙を書く近世が本を読む近代に敗退する物語として我々に手渡され、そしてその本を読む近代人にとって、唯一愛するものが彼女自身でしかなく、その空疎があらゆる人間を不幸にして幕を閉じる。我々のあからさまな不幸さを哄笑し、幸福などすでに曖昧に消え去ったのだと我々は知り、しかしそれを笑って、我々は映画館の暗がりから外に出ることを許されたのである。

 

 

映画『女王陛下のお気に入り』 (オリジナル・サウンドトラック)

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*1:具体的にいつごろまでかは失念しました。『近代読者の誕生』が座右にないので許して...。

*2:イングランドにおいて本を読む、という仕方は日本列島に本を読むという仕方とは位相が異なるものであり、イングランドにおいては近世にあっても黙読こそが当然の所作なのかもしれず(キリスト教文化圏だしいかにもありそうな気がしてきた)、そうなるとここまでも文字列は事実誤認の電波なのだが、気にしないことにする。