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別れた彼の居場所――『きみと、波にのれたら』感想

映画チラシ きみと、波にのれたら 片寄涼太 川栄李奈 松本穂香 伊藤健太郎(吹替)

 『きみと、波にのれたら』をみました。湯浅政明監督のフィルモグラフィのなかでも、間口はバツグンに広く、しかしそのアニメーションの魅力はいささかも減じていない快作だったと思います。以下感想。

  人は、まるで初めて会ったかのように、運命の人と再会することがある。すでに運命的に出会っていたにもかかわらず、その出会いはいつしか忘れさられる。そうしていつしか、再び、初めて二人は出会う。二人はいつまでも一緒にいられるものだと思っていた。幸福な時間はいつまでも続くと思っていた。しかし、不幸な偶然はそれを許さなかった。置き去りにされた彼女は、再び、自分の波に乗れるのだろうか。

 湯浅政明監督の最新作は、サーフィンを愛する大学生、向水ひな子が、運命の人と(再び)出会い、そして別れ、そして再起するさまを描く。重要なモチーフの一つであるサーフィン、そして水のイメージは、『夜明け告げるルーのうた』の記憶を喚起する。人魚であり、同時に吸血鬼的なイメージをまとっている少女をヒロインに据えた『夜明け告げるルーのうた』は、どこかホラーのような雰囲気を漂わせていたが、そうした雰囲気はこの映画では一気に後退し、水のなかにあらわれる死者のイメージには、不思議なほど暗さがない。

 恋人との死別という、何度も何度も語られてき悲劇の類型を借りつつも、そこに過剰な悲劇性は付与されず、水の中に再び現れた死者と戯れるひな子の姿はコミカルに描かれている。そうした明るさを生み出しているもののひとつは、単純に絵が動くこと、それ自体によって喚起される気持ちよさ、つまりアニメーションの快楽が、この作品のなかで死者と生者を媒介する水に託されているからだろう、と思う。ひな子が波に乗るさまが爽快なのは、何よりもその波が素晴らしくいきいきとしているからに他ならない。

 こうした水のアニメーションが、なぜこれほど楽しさに満ちたものとして表象されたのか、されなければならなかったのか。この問いに答える方途のひとつは、水にまつわる我々の記憶を想起することだろう。作品のなかで、彼女と彼との思い出に分かちがたく結びつき、同時に彼女と彼とを永遠にわかつ原因ともなった水。それは、我々の現実においては、街を飲み込み、人の命を奪っていったものでもある。『夜明け告げるルーのうた』がそうであったように、この『きみと、波にのれたら』もまた、フィクションの力によって我々の水にまつわる記憶を、別様なものへとメタモルフォーゼさせようとする試みだといえるのではなかろうか。

 水が人々の住む街を飲み込むとき、それは抗いようのない暴力であるのだが、同時に、水が街にあまねく存在することによって、人々の生活を焼き尽くす炎をなんとか消し止めることもできる。この映画のクライマックスにおいて、燃え上がる炎を消し止めるための水が、消防士たちをも飲み込むさまがコミカルに描かれたのは、そうした街と水との関係を架橋するためではなかろうか。そうして、人から何かを奪い、同時に何かを救いもする波に、彼女が乗ってみせるクライマックス。おおよそ想像もつかないような、現実ではまったくありえないような場所で波に乗る彼女たちの姿こそ、フィクションが現実と取り結んでいく関係のなかで、我々が物事を眺める仕方を変えていけるのだ、と雄弁に語っているようにも思えた。

 そしてこの物語の大きな美点の一つは、そうした再起、再び自分の仕方で波に乗るという経験を経てなお、すでに失われたものが心をよぎるとき、巨大な感情の波が彼女に去来してしまうのだ、ということを伝えることを忘れなかった点であるように思う。彼の居場所が水のなかであったのは、我々の涙というものが、死者の居場所の一つであることを教えるためだったのかもしれず、そうして、彼女は再び波に乗りつつも、もはや手を触れることも口づけを交わすこともかなわぬ彼を宿した涙と、何度でも出会い続けるのである。

 

 

小説 きみと、波にのれたら (小学館文庫)

小説 きみと、波にのれたら (小学館文庫)