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映画、歴史のスタントマン――『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』感想

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド オリジナル・サウンドトラック

 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』をみました。以下感想。

  1960年代終わりごろ。ハリウッドの空気が変わりつつあった時代。西部劇がもはや過去の懐かしき遺物になろうとしていた時代かもしれない。変わりつつある時代に取り残されつつおのれを自覚しつつあるかつての売れっ子俳優。彼に飄々とよりそうスタントマン。そして今まさに、時代のただなかに立ち、私こそが時代を築き上げるのだといわんばかりに魅力を振りまく女。その女の名を、シャロン・テートといった。

 シャロン・テートの身にふりかかった悲劇を背景に、落ち目の俳優=レオナルド・ディカプリオ、その専属スタントダブル=ブラット・ピットの悲喜こもごもがにじむ日常を映し出す。こういう題材だから、クエンティン・タランティーノの近年のフィルモグラフィ、『イングロリアス・バスターズ』や『ジャンゴ』、『ヘイトフルエイト』などと比べて全体としての暴力描写は抑えられている。暴力のにおいのする緊張がただよう場面もあるが、結部を除いては決定的な事態にいたらない。そのことが、全体の印象を弛緩したものにしているという気はする。

 無論、その弛緩した雰囲気がこの映画の出来不出来とそれほどかかわりがないことは言うまでもない。その緩やかに過ぎていく時間たちは魅力的なディティールに満ち満ちていて、それは二人の俳優の持つ圧倒的な吸引力が絶妙に発揮されているからこそ生み出されるものでもある、と思う。

 さて、この映画の大きな賭け金は、「あの悲劇」がスクリーンの上でも再現されるのか、ということにあるのは言うまでもない。それは、おそらくおおむね観客が期待した通りの――架空の男たちが実在の殺人犯を完膚なきまでにぶち殺すという帰結を迎え、あまりに楽天的な、オルタナティブの歴史の始まりが告げられてこの物語は終わる。

 あの悲劇さえなければ、という想像力。それは――無論、いいようのなく不幸なことなのだが――この列島で生きるある種の人間(それはもちろんこの僕も含む)、2019年8月という地点において、どうしても働かせたくなるものだった。だから、この映画に挿入される燃え盛る人間の姿をみて、どうしても、それをおもしろい見世物と受け取ることもできないのだが。

 しかしやはり、こうした想像力の使い方は、フィクションがフィクションであるがゆえに可能なこと、語りうることの一つなのだろうと思う。タランティーノにとって、映画とは歴史のスタントマンなのかもしれない。実際に起こった人の死――それがあくまで、スタントマンという尋常でない強靭さと俊敏さとを備えたプロフェッショナルの力によって演出された、架空のものだったのだ、という仕方で、映画は悲劇をあくまでも虚構の出来事に変えることができるのだから。これまでスタントマン・マイクとかいう愉快な狂人をスクリーンに登場させ、またゾーイ・ベルを表舞台に引っ張りだしたクエンティン・タランティーノという人が、スタントダブルに並外れた敬意を払っていることは想像に難くない。それはなぜかといえば、彼らこそがまさしく、存在として映画という虚構を生きうる根拠なのだからだろう、とこの映画をみて思った。

 

 

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド オリジナル・サウンドトラック

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド オリジナル・サウンドトラック