宇宙、日本、練馬

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ニック・キャラウェイにとってジェイ・ギャツビーの偉大さとは何か

 グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』という小説がある。言うまでもなく、極めて著名な作品である。幾度も映画化され、それらのうちのいくつかを私たちは容易にみることができる。そして、ありがたいことに、日本語にも何度も訳され、いくつもの翻訳を手に取ることができる。ここで書き留めたいのは、それらの差分である。結論を言えば、いま新品を手に入れることのできる3種の日本語訳、野崎孝訳、村上春樹訳、小川高義訳は、それぞれ別の結末をもつ。

  別の結末を持つ、といっても、それは3種の日本語訳がまったく違うあらすじをもつ、ということを意味しない。そんなことがおきては、それは翻訳の領分を大きく超える仕事がなされているか、いずれかの翻訳に致命的かつ大掛かりな誤りがあることになる。そんなことは、たぶん、ない。

 それではなぜ別の結末を持ちうるのかといえば、これはギャツビーという男の物語が、ニック・キャラウェイという語り手によって語られ、私たちに手渡されるからにほかならない。彼が、ギャツビーという偉大な男の物語を総括し、この小説は締めくくられる。そしてその総括の一文は、3種の翻訳でまったく異なるのだ。以下、引用しつつその差分を眺めていく。

 

ギャツビーは、その緑色の光を信じ、ぼくらの進む前を年々先へと後退してゆく狂騒的な未来を信じていた。あのときはぼくらの手をすりぬけて逃げて行った。しかし、それはなんでもないーーあすは、もっと速く走り、両腕をもっと先までのばしてやろう……そして、いつの日にかーー
  こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運びさられながらも、流れにさからう舟のように、力のかぎり漕ぎ進んでゆく。*1

 上で引用したのは、新潮文庫版の野崎孝訳。初出はおそらく1957年。

グレート・ギャツビー (新潮文庫)

グレート・ギャツビー (新潮文庫)

 

  野崎訳では、キャラウェイはギャツビーという男の物語を梃子にして、これからの人生を歩んでゆくのだろう、という雰囲気がある。たしか斎藤美奈子も指摘していたように記憶しているのだが、ギャツビーをある種の踏み台にして、ニック・キャラウェイの成長譚として読むがゆえに、この一文はこのように訳出されたのかもしれない。ここでギャツビーの偉大さとは、その続きを歩んでいけるような偉大さなのだ。

 

ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前から遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。......そうすればある晴れた日に――
 だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。*2

  上で引用したのは中央公論新社村上春樹訳。初出は2006年。

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

  村上は、付された解説において、先行する訳が自分の考える『グレート・ギャツビー』と違う話に思える、というような違和感があったと述べている。なぜ「違う話」に思えたのか、それはこの結末の一文に端的に表れている。村上はおそらく、この作品をニック・キャラウェイの成長譚だとはまったく思っていない。

  ギャツビーの偉大さは、ここにおいては、それをキャラウェイが引きつげるような質感をもつものでなく、しかしキャラウェイがその未来において、そこに絶えず立ち戻る、立ち戻ってしまうような、そうした経験として表れている。

 

ギャツビーは緑の灯を信じた。悦楽の未来を信じた。それが年々遠ざかる。するりと逃げるものだった。いや、だからと言ってなんなのか。あすはもっと速く走ればよい、もっと腕を伸ばせばよい……そのうちに、ある晴れた朝が来てーー
 だから夢中で漕いでいる。流れに逆らう船である。そして、いつでも過去へ戻される。*3

  上は、光文社古典新訳文庫小川高義訳。初出は2009年。

  小川訳の末尾は、挫折感と敗北感に満ち満ちている。野崎訳の完全なネガといってもいいかもしれない。先行する訳と比較すると、最後の一文をぶつ切りにして訳出する大胆さが目を引く。これによって、「過去に戻される」という一文が強力な磁場を帯びてくる。この大胆さは、ギャツビーの偉大さとは、まさしく挫折と敗北にこそ宿っているのだ、と強く主張しているように思える。

 こう並べてみると、野崎訳=ポジティブ、小川訳=ネガティブ、村上訳=中庸、のような仕方でおおざっぱに腑分けできるかもしれない。ポジともネガとも読めるような、というか、どちらのニュアンスも含みこませた訳文をこさえた村上の卓越したバランス感覚は、さすが超一流の流行作家といいたくなるが、ともかく、ギャツビーの偉大さをさまざまな仕方で感受できること、多くの翻訳があるということを、私たちはよろこぶべきなのだろう。

 

 

ロング・グッドバイ フィリップ・マーロウ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ロング・グッドバイ フィリップ・マーロウ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

 

*1:p.300

*2:p.325-6

*3:p.295