先日よりプライムビデオで配信されている『アンナチュラル』をみました。いや大変おもしろかったです。以下感想。
探偵小説には死体がつきものである。不自然な死体の発見が事件の存在を示唆し、その死体の周辺をめぐる状況を観察することから探偵は推理を始める。死体をめぐる謎。こうした探偵小説が全盛を迎えたのは1920年代から30年代であったが、なぜこの時代に探偵小説は黄金時代をむかえることになったのか、という点について、笠井潔は興味深い指摘をしている。曰く、第一次世界大戦という世界史上類をみない大量殺戮のあとで、その無数の死体、意味もなく生み出された無数の死体を前にして、なんとかその死に意味を与えることが要請されたからだ、と。
「大戦が生産した無意味な屍体の山に対して、それを新たに意味づけ直さねばならないという衝動が、各国で普遍的に生じた。共産主義もファシズムも、表現主義もシュールレアリスムも、またハイデガー哲学も、そうした磁場において大衆や知識人の心を掴んだのだ。/直接の戦禍を避けえた英米では、それらに対応し、それらを代補するものとして本格探偵小説が書かれ、かつ広汎に読まれたのである。ひとつの屍体に、ひとつの克明な論理。それは無意味な屍体の山から、名前のある、固有の、尊厳ある死を奪い返そうとする倒錯的な情熱の産物ではなかったろうか。」*1
「戦場で大量殺戮された、産業廃棄物さながらの死者の山に象徴される二十世紀的な必然性に渾身の力で抵抗し、固有の死を再建しようと努めること。同時に、それ自体としてはアナクロニズムに過ぎない固有の死、栄光ある死、名前のある死を描出しようとする結果として、裏側から大量死、些末な死、匿名の死の時代である二十世紀の必然性を照らしだすこと。これこそ大戦間に英米で発生し、そして盛期を迎えた本格推理小説の精神なのである。」*2
探偵小説のターニングポイントとしての第一次世界大戦、という見立てはたとえば内田隆三『探偵小説の社会学』でもまったく違う理路から探求されているし、また鈴木智之「顔の剥奪」*3も、笠井の議論について一定の評価を与えている。
こうした笠井らの議論を踏まえるならば、この『アンナチュラル』はそうした黄金時代の探偵小説的な問題意識をもって、現代にとって探偵の仕事とは何か、ということを語ろうとしたある種の探偵小説論として見立てることができるだろう。現代日本にあって、シャーロック・ホームズのような名探偵の居場所は——少なくとも社会的現実と乖離せずに物語を語ろうとするならば——存在しない、といっても言い過ぎではないだろう。だからこそ、北村薫や米澤穂信といった作家は、「日常の謎」とも形容されるジャンルにおいて、探偵不在のなかでいかに探偵小説を書くか、という実践を重ねてきたのだろう。
一方で、この『アンナチュラル』は法医学者という職業を設定することで、現代にありうる名探偵の居場所を巧みにつくりだしてみせた。死体を解剖し、その死因を特定する。その実践のうちに、「名前のある死」を描出しようとした黄金時代の名探偵の仕事を見出すことは決して突飛な発想ではなかろう。黄金時代の探偵小説に第一次世界大戦の影か差していたように——具体例を挙げるならば、アガサ・クリスティは第一次世界大戦時に看護師として死がまさに生起しようとする現場に立ち会っていた——、『アンナチュラル』においては東日本大震災の経験——不自然死究明研究所の所長、松重豊演じる神倉の経験——が微かに言及されるのであり、そうした社会的現実とのせめぎあいの中にもまた、この『アンナチュラル』がいまという時間、日本列島という空間において、いかに探偵たる存在を語るか、という問題意識を看取できる。
個別の挿話を通底するモチーフとして、「死者の名前の回復」——その死者がいかにして死んだか=いかに生ききったのかを明らかにすること――があるのは言うまでもないが、この探偵の実践は、全体をつらぬくエピソードであり、また結末を飾る挿話でもある中堂系の事件においてある種の極北に達する。
かつて中堂の恋人を殺害し、アルファベットになぞらえた26通りの殺人を達成した男。この殺害方法はクリスティの『ABC殺人事件』を否応なしに想起するわけだが、このような時刻表殺人、もしくは『そして誰もいなくなった』のような見立て殺人こそ、内田が『探偵小説の社会学』で指摘したようなポスト総力戦的な「アトランダムな死」の象徴であり、「名前のない死」の極限ともいえるものなのだ。
この殺人者は、結局のところ自身の殺人という偉業のユニークさへの拘泥によって自滅し、不自然な死の謎は解かれて「旅の終わり」を迎える。彼女の旅は終わったのだ、とその父親が言うとき、その比喩の素朴さはやや意外な感を我々に与える。しかしその素朴さこそ、もしかしたら死者の名前が回復されたことの証明なのかもしれぬ。「アウシュビッツのあとに詩を書くことは野蛮である」とアドルノは書いた。アウシュビッツに象徴されるホロコーストという出来事が、ほとんど数え上げることもできないほど大量の「名前のない死」を生み出したことは確認するまでもない。詩を書くことが野蛮でないためには、死者の名前を回復するという喪の作業がなされなければならないのかもしれず、こうした「旅の終わり」という素朴な喩、もしくは「今でもあなたは私の光」という朴訥な言葉の連なりに何かを託せること。それが探偵の仕事が完遂された証左なのであり、また死者の名前を想起する縁となるのが、詩の仕事の一つなのだ。