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疾風に帰る場所なし――司馬遼太郎『韃靼疾風録』感想

韃靼疾風録〈上〉 (中公文庫)

 信頼できる男として知られる景浦氏が司馬遼太郎ベストと評する『韃靼疾風録』を読みました。十年ぶりの司馬遼太郎でしたが、確かにこれは最高傑作という言葉にたる、見事な小説だったと思います。以下、感想。

  江戸時代初期、平戸島。流れ着いた女真の公主の娘を故地に送り届け、そしてかの地の情勢を探れとの密命を帯びた武士、桂庄助が、明王朝の終焉、そして新たなる王朝が中華の地に覇をとなえるさまを見届ける。

 余談をふんだんに盛り込み、あるいは無法に横道にそれつつ、過去という沃野をものの見事に耕してゆき、生き生きとした小説世界をつくりだしてしまう膂力は、やはりちょっと並の書き手では太刀打ちできぬだろう、と強く思う。無数の資料を採集して形作られた世界のディテールが、広大無辺のユーラシアの大地の途方もない広大さを雄弁に語ってみせる。

 ヌルハチにはじまる女真の疾風がまさに吹きすさぶ、17世紀の中国で、この語り手が目にするのは一つの世界の終局であり、かつ新たなる秩序の創成であり、そして男たちの誰もがみな故郷を失ってゆく悲哀である。おのれの文明を信じた明の漢人どもは野蛮な辮髪を強制されてゆき、おそらく女真の朴訥で強靭な男たちは、故地を離れた故か、やがてその剛健さを失ってゆくことを我々は知る。網野善彦は『蒙古襲来』のなかで、日本列島に襲来した元軍が、かつてチンギスがその頂点にあった時代のような、遊牧民の強靭さを失っていたのではないかと書いた。史学的な裏付けのある事実というより、詩人の直感の類であり、また言い尽くされたステレオタイプでもある。しかし、そこに一片の真実は宿っているという気もする。『韃靼疾風録』は明の滅亡を書いた。同時に、そこにすでにはらまれた、女真の人々が真に強靭であった時代の終わりも書いた。彼らの故郷はただ疾風のなかだけにあり、そしてその疾風が秩序のなかで止んでしまえば、彼らの魂が真にやすらう場所などないのだといわんばかりに。

 かつてアジア太平洋戦争期に満州の地を踏み、そしてまた日本列島に戻ってきた福田定一が、およそ40年後に、この桂庄助という武士の数奇なる運命を書くことになる。この作家が最後に書き残したことは、ユーラシアの荒野で命を拾って生きて帰ってきた男が、太平の世の、せまい列島のなかで感じる息苦しさだった。この素朴なあこがれにも似た感覚が、40年のあいだ、どのように彼のテクストに息づいてきたのか、そのことがすこし気になる。

 

韃靼疾風録〈上〉 (中公文庫)

韃靼疾風録〈上〉 (中公文庫)

 
韃靼疾風録〈下〉 (中公文庫)

韃靼疾風録〈下〉 (中公文庫)