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左翼の似姿として——仲正昌樹『統一教会と私』感想

統一教会と私 (論創ノンフィクション 006)

 仲正昌樹統一教会と私』を読みました。以前出た『Nの肖像 ― 統一教会で過ごした日々の記憶』が出版社を変えて増補改訂版で出たということなのかしら(本文中に記載がないので確信はありませんがおそらくそうでしょう)。以下、感想。

  はじめに、仲正正樹氏の著作について触れる前に、わたくし自身と所謂新興宗教との接点について書き留めておく。大学入学直後、まだ入学式前の時期だったと思うが、大学構内で、どうやら先輩とおぼしき落ち着いた雰囲気の女性に声をかけられ、ありきたりな世間話ののち連絡先を交換するということがあった。その時はまあサークルの勧誘だろうと思っていたのだけど、やりとりのなかでどうもスピリチュアルっぽい雰囲気を感じたこと、大学の行事日程についてあまりにも無知なこと(入学式の日程も知らなかった)などから、どうもあやしいなという雰囲気を感じて、こちらから連絡を返さなくなった。入学後、サークルに入ってその話をしたら、ああそれはぼくも勧誘されたよという先輩がちらほらいて、ああ、やっぱりそういう感じであったのだなと納得した。先輩の一人は実際にセミナーに連れていかれるまで新興宗教の類だと気づかなかったそうだ。そんなことあるか?という感じですが...。以後、玄関先にたまに勧誘とおぼしき人が訪ねてくるくらいが、わたくしと新興宗教との接点である。

 仲正氏も、大学入学をきっかけに統一教会原理研)と接触をもち、以降11年ものあいだ、信徒として活動していたという。本書にはその入信の経緯や原理研での生活、そして脱会するまでの経緯が語られている。原理研での共同生活や、「万物復帰」(=訪問してものを売ること)など、その信仰生活のディテールについてもかなり冷静なタッチで語られていて、そこらへんのことについて知ろうとしたことってなかったな、と今更気付かされる。

 わたくしは仲正氏の現代思想系の著作に大いに啓発されたのだが、氏のこの経歴を知ったとき、率直にいって非常に驚いた。それはやはり、仲正氏が大学に入学した1980年代初頭と現在とでは、我々の新興宗教に対するまなざしがドラスティックに変容していることが大きいだろう、と感じる。

 氏が統一教会に入信したのは、東大内で、あるいは左翼の拠点である寮のなかでの「居場所」のなさを解消してくれる場所だったから、というふうに要約してよいだろう。もし駒場寮の新左翼たちが話を聞いてくれていたら、自分も新左翼の運動にコミットしていたかもしれないと仲正自身も書いている*1が、本書で通底する構図は、そうした新左翼新興宗教とは、ある種の宗教的な次元に拠って立つ共同性をもつという点において互いの似姿ではないか、というものである。小熊英二『1968』が「自分探し」と形容した新左翼運動が、1968年から遠く離れてそうした雰囲気を帯びていったのはある種の必然だったのかもしれない。

 新左翼新興宗教とが抗争するキャンパス空間、というものは少なくともわたくしが経験した大学生活においては既に過去のものという感じで、2015年に安倍政権に対する抗議運動が活発化した際にも、学内で新左翼が人員を動員して...という動きは全然先鋭化していなかったように記憶している。また、新興宗教に対する目線は、地下鉄サリン事件以前以後で大きく変わったろうし、新興宗教によい印象ははっきりいってまったくないという人間は同年代の多数を占めるのではないか。

 仲正氏自身も、統一教会に入ったのは「たまたま」そうなったのだ、と語っているが、それは本当にそうだろうと思うし、少し時代が違えば新興宗教に接近する確率は相当さがったろう、とも思う。現在、インターネット上ではしばしば幸福の科学がネタ的に消費される。わたくしも、大学認可をめぐる騒動など、とても適切な行動がとられているとは思えないのでやばいと考えているし、教祖自身のイタコ芸はある種のネタ化を誘っているようにも感じる。それらを嘲笑することがなんの益もないからやめたほうがいいんだろうけど、しかし益があると思ってネタ化しているわけでもないから、ここで何か書いても意味はないだろう。本書を読んで新興宗教を信仰する人々への偏見は捨てようと思いました、と結べばお行儀のよい感想文になっておしまいおしまいというところなんだけど、まあ、そういうことを書くこと自体が非常に不誠実な気がする。

 

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増補新版 ポスト・モダンの左旋回

増補新版 ポスト・モダンの左旋回

  • 作者:仲正 昌樹
  • 発売日: 2017/01/25
  • メディア: 単行本
 

 

*1:p.228