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余計者たち——ハンナ・アーレント『全体主義の起原』メモ

全体主義の起原 1 ――反ユダヤ主義

 年明けからぱらぱらとめくっていたハンナ・アーレント全体主義の起原』をどうにか最後まで読んだので、メモ。

  本書が全体主義体制として見立てるのは、ナチス・ドイツソヴィエト連邦スターリン体制。たとえばイタリアのファシズム運動などは、全体主義体制を打ち立てるには至らなかったと評価する。全三巻のうち、1・2巻ではおもにナチス・ドイツを念頭に議論を展開しているが、3巻でわりといきなりソ連が考察の対象となってくる。これはどうも、本書が書かれる中での社会情勢の変化に対応して構想を変化させた結果らしい。

www.jstage.jst.go.jp

 本書で全体主義が生じる大きなモーメントとして重要視されるのは、19世紀の国民国家の成立、そして19世紀末におけるその衰退である、とひとまず要約してよいと思う。その国民国家の成立と分解過程のなかで、マルクスが見立てたような階級社会もまた崩壊してゆき、人々の紐帯、よりどころのようなものが喪失してゆく。

 そのなかで、反ユダヤ主義帝国主義が生起してくる。それらが1巻、2巻でそれぞれ扱われるという構成。その両者は、社会の「余計者」に関わるという点で共通している。

 反ユダヤ主義は、「国民」概念によって凝集する国民国家のうちにあって、ユダヤ人が「余計者」であることがより鮮明になっていくことで近代的な形態をとるようになっていく。ユダヤ人が国民国家に同化しようとする動きも生じるが、それがまた逆説的によそ者性を強化してしまうという皮肉。

 一方で、ヨーロッパがアフリカ大陸を切り取っていく帝国主義もまた、階級社会のなかでこぼれおちた「余計者」が海外にその居場所を求めるようになったことで駆動したのだと見立てる。この余計者たちをアーレントは「モッブ」と名付け、「大衆」などとは明らかに区別して独特の負荷を与えて用いているようである。

歴史家が見落としていたのは、モッブは増大する工業労働者とも、まして絶対に下層の民衆とも同一視されるべきではなく、モッブはそもそも全階級、全階層からの脱落者の寄り集りだということだった。まさにこのために、あたかもモッブにおいては階級差が止揚されているかのように見え、階級に分裂した国民の外側に立つモッブは失われた民族ーーナツィ用語で言えば「民族共同体」ーーであるかのように思われた。*1

 この「余計者」はかなり重要なモチーフっぽくて、自分も「余計者」になるかもしれないという恐怖が全体主義を駆動する一因ではみたいな記述もあったりする。

この大衆時代ーー失業の亡霊が徘徊していないときにすらもすべての人間が自分は<余計者>ではないかと恐れている時代*2

 そうした不安を解消する機能があればこそ、全体主義体制は生じるのだとアーレントはどうやら指摘している。この複雑な世界のなかで生起する不安を解消するために、全体主義体制は極めてシンプルな世界観を提示して物事をクリアカットにしてみせる。

仲間に入っていない者はすべて排除される」とか、「私を支持しない者はすべて私の敵だ」とかいう原則の上に建てられた組織は、現実の世界の中に居場所を持たずそれ故に方向を見失っている大衆にとっては混乱と苦痛の源でしかないあの現実世界の多様性を消し去ってくれる。*3

 ここらへんの議論は、今般話題にのぼる陰謀論をめぐる状況と響きあうのかもしれない。ある種の世界観を受け入れ、物事をすべてその基準で解釈することによって、この複雑極まる現実はシンプルに「理解」される。しかし、そうした世界を突き詰め、複数性を消去して単一的なもののみを善とみなし続けるならば、そこには全体主義体制にとっての理想社会、強制収容所が現れることになる。

全体主義体制にとって問題であるのは、人々を支配するデスポティックな体制を打建てることではなく、人間をまったく無用にするシステムを作ることなのだ。*4

警察の管轄下の牢獄や収容所は単に不法と犯罪の行われる場所ではなかった。それらは、誰がいつなんどき落ちこむかもしれず、落ちこんだら嘗てこの世に存在したことがなかったかのように消滅してしまう忘却の穴に仕立てられていたのである。*5

 しかし、こうしたものに対抗してなにかを始めるのもまた人間なんだぜ、として本書は結ばれる。

「始まりが存在せんがために人間は創られた」とアウグスティヌスは言った。この始まりは常に、そしていたるところにあり、準備されている。その継続性は中断され得ない。なぜならそれは一人々々の人間の誕生ということによって保障されているのだから。*6

 

 以上、個人的メモとして書き留めておきましたが、本書の全体構造みたいなものは正直あんまりのみこめていないという気がします。仲正『悪と全体主義』のおかげで議論の勘所みたいなものはなんとなくわかった気になってはいるのですが...。

 

以下のHP上の絵解きなんかみるとああなるほどと思ったりするのですが。

www.cscd.osaka-u.ac.jp

 

 文庫化したら再読するでしょう。文庫化を待ちながら。

 

 

 

*1:2巻、pp.54-5

*2:3巻p.230

*3:3巻、p.129

*4:p.261

*5:p.224

*6:3巻、p.300