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クイーン『十日間の不思議』から法月綸太郎のほうへ

十日間の不思議〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 このところ、クイーンのライツヴィルを舞台にした作品群を読んでいたので、備忘的にメモを残しておきましょう。『十日間の不思議』の核心に触れています。

  クイーン中期の重要作とされる『災厄の町』に始まる、アメリカの架空の田舎町、ライツヴィルを舞台にした作品群が最近新訳で読めるようになって、ありがたい限りです。2014年に『災厄の町』が新訳されて、昨年末に『フォックス家の殺人』、そして今年2月に『十日間の不思議』と、ひとまず3作目までこれで新品が手に入るようになったわけです。法月綸太郎『頼子のために』、『ふたたび赤い悪夢』を読んで以来、『十日間の不思議』を読まねば読まねばと思いつつ果たせていなかったわたくしにとっては大変僥倖でありました。

 レーン4部作および『エジプト十字架の謎』しかわたくしクイーンを読んでいないのですが、『災厄の町』は「読者への挑戦状」も付されておらず、殺人自体も予告はされつつもなかなか起きない、なんだかクイーンの振る舞いもフィリップ・マーロウ的なハードボイルド風味だし、結構大胆に作風を変えたのね、という素朴な驚きがありました。

 また、『災厄の町』・『フォックス家の殺人』は、事件の「真相」は白日のもとにさらされず終わるという点で相似形。広く公にされた事実ではない、探偵だけが知る真実があるが、探偵はそれをごく限られた人間にしか伝えないという結末を迎える。『十日間の不思議』ではそのことを看過していることをほのめかす男が登場し、どうも一筋縄ではいかぬぞという感じが序盤から漂う。

 そして『十日間の不思議』において、探偵が真犯人の誘導通りに推理をすすめ、偽の犯人を指名してしまったことで、結果的に真犯人の殺人の手助けをしてしまう、という衝撃的な結末を迎え、真犯人に制裁を加えるものの、クイーンは探偵の廃業すら宣言する。

 この筋立てが導く、所謂「後期クイーン的問題」について、とりわけ法月綸太郎などが強く意識していることは知っていた。探偵が証明した「真実」が本当に真実であるかどうか、それを保証するものはなんなのか。つねにメタレベルが導入されてゆけば「名探偵」の推理は都度破られていくことになる。これを端的に「仮説形成の必然性」と名指しているのをTwitterでみかけたが、これは適切な語彙の選択だろう。この状況の戯画化が舞城王太郎ディスコ探偵水曜日』の名探偵たちの推理なんだろうかという感じがする。

 法月綸太郎にとっての『十日間の不思議』として『頼子のために』は書かれたのだろうが、デビュー作の『密閉教室』からしてそうした探偵的なるもののの拠って立つ足場のもろさが強く意識されていたのだなと感じる。それが柄谷行人が拘泥したゲーデル不完全性定理などの当時の流行などとからみあって、作家を強く拘束したのかも、とも思う。

我々が直面しているものは探偵小説に出てくるような予定調和的な謎じゃない、不条理で複雑きわまりない現実なのだ。煩わしいだけの不毛な推理較べなんか何の役にも立たない。*1

 文学を愛好し推理小説を嫌悪する教師、大神のこの言葉は、作家としての法月綸太郎の葛藤の一面が露出したものかも、というのや素朴にすぎる見立てだろうか。

 ともかく、いまぼんやりと構想している『氷菓』論のために、もうちょっと法月のテクストについて考えてみないといけないなと思います。柄谷行人まで読むの?さすがにちょっと労多くして得るもの...という感じになりそうではあるけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:p.226