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ディストピアの夕暮れ——アニメ『新世界より』感想

「新世界より」 一 [Blu-ray]

 アニメ版『新世界より』をこのところみていました。10年代の落穂拾いの一環です。以下、感想。

  我々の見知った日本列島によく似た風景。平野部に水田が広がり、水路が張り巡らされている。しかし、そこにはどうやら電気はないらしい。人の姿もまばらで、小さく閉じたコミュニティのなかで生活が完結しているようである。そして何より我々の世界と彼らの世界とを分かつのは、超常の力、呪力。彼らの世界の大人たちは呪力を操って森羅万象にはたらきかけ、コントロールすることができるようである。それが我々の世界における文明の利器の代替物となっているがゆえに、彼らの世界は我々の世界と比べるとどことなく質素でミニマルにみえる。そのような世界で生きる少女・少年たちが、次第にその暗闇をのぞき込み、そして飲み込まれてゆく。

 貴志祐介による小説を、監督・石浜真史、アニメーション制作A-1 Picturesがアニメ化。文庫版で3巻におよぶ長編を、2クールかけて堂々と語り切る横綱相撲。細かな点で違いはあれど大筋は原作のプロットに則り、原作のおもしろさの勘所を適切につかんだすぐれたアダプテーションがなされていたと感じる。

 石浜監督がpixiveから一本釣りしたという*1イラストレーター・依りのキャラクターはキュートで記号的。このキュートさによって吸引力が生じているし、凄惨な展開が一層おぞましく感じられもする。そしてなにより不気味なバケネズミとの対比を一層鮮烈なものにもしている。また、アクションシーンではキーアニメーターとしてクレジットされている小島崇史の腕力が効果的に発揮されていて、それもアニメ版の強い魅力になっている。

 さて、原作のおもしろさの一つは、ディストピアという使い古された仕掛けを梃子に、そのディストピアへの反抗を期待させながら、いつのまにやらそのディストピアを防衛する側に感情移入させられてしまっている、という意地の悪い詐術にある。最悪の事態を防ぐという目的のため、社会にマイナスな影響を及ぼすこどもを容赦なくパージすることで維持されているディストピア。語り手の姉や友人、愛する人たちもその犠牲となってきたのだが、そのことすら超常の力で忘却させられ、社会に飼いならされていく。

 しかし、作中でそのディストピアへの反逆の担い手となるのは、利発な少女・少年たちではなかった。呪力をあやつる人間たちに奴隷のように管理・使役され、そして最悪の場合は皆殺しにされる運命にあるバケネズミたちであった。人語を介する大きなハダカデバネズミといった風体のバケネズミたちが、かわいらしいキャラクターたちに容赦なく牙をむき、次々殺戮していくが、一方で人間たちも反撃の機があれば呪力によっていともたやすくバケネズミたちを虐殺していく。

 バケネズミの切り札の圧倒的な強さ・残虐さもあいまって、我々はいつのまにやら人間たちに感情移入して物語をながめている。ディストピアへの反抗の期待はいつのまにかずらされ、ディストピアの防衛をこそ期待してしまっている、この期待のずらし方の巧みさは、アニメ版のおいても見事に達成されていた。

 バケネズミたちの正体が結部で明らかになることで、我々の「期待」のありかたは明確に冷や水を浴びせられ、我々がいかに「我々」と「他者」とを残酷に選別しうるかを突き付けられる。「我々」でないものへ発揮されうる、ほとんど無限の残酷さ。我々の想像力を拘束する、視覚に基づいた認識のありよう。作中の呪力を発揮するにあたって、視覚が極めて重要な役割を果たすことがしばしば強調されるが、その視覚に確かな実質を与え得たという意味で、このアニメ版は見事に成功しているだろう。

そして、物語は仄かな変革の意思だけが記録に書き残されて終わる。動物的な、遺伝子操作による暴力性のコントロールではない、別のなにかによって、核兵器にも等しい強力無比な力をコントロールしうるか。それは端的にいってしまえば対話的理性というか、社会性のようなものに期待されうるものなのだろうが、貴志祐介という書き手がそんなものに素朴に希望を託しているとは思えない。だからこの結末は、少なくとも作中の時間においては回避された破局が、また別様な仕方で彼女たちの世界に降りかかるという予示なのかもしれない、と思う。夕暮れ時に響くドヴォルザークの旋律の懐かしさと、また同時にはらまれたうら寂しさは、ディストピアの終焉——それも決して幸福なかたちではない終焉の予告か、否か。

 

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