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名無しの死体の一歩手前——笠井潔『群衆の悪魔 デュパン第四の事件』感想

群衆の悪魔 上 (デュパン第四の事件) (創元推理文庫)

 笠井潔『群衆の悪魔』を読んだので感想。

  1848年、パリ。二月革命の最中、群衆のなかで不審な死を遂げた記者の死を、”シュヴァリエオーギュスト・デュパンが追う。連鎖的に発生する殺人事件、捜査線上に浮上するはパリの大立者たち。若い詩人をワトソン役に、19世紀における探偵の使命が語られる。

 エドガー・アラン・ポーの生み出した探偵にオマージュを捧げた本書は、その名探偵のキャラクター性というよりは、その生きた時代をこそ切り取ることに興味の軸足があったのではないかと推察する。かのシャーロック・ホームズを主役にしたパスティーシュは無数といっていいほどにあると思うが、そのホームズの祖型ともいうべきデュパンは、ホームズほどにはそうした創作の対象になっていない。それはひとえに、そもそも登場する作品数が少ない(3作しかない)こと、そして何よりその3作品は大塚英志のいうところのキャラクター小説的な魅力に(ホームズものほどには)あふれているわけではない、という点によるだろう。

 だから、デュパンを主役に据えたこの『群衆の悪魔』は、探偵のキャラクターとしての魅力を借り受けるというよりは、むしろその探偵の生きた時代、19世紀という時代とそこに生きた実在の人物に焦点をあてる。主役は探偵ではなく、19世紀の首都たるパリとその時代なのだ、と言い切っていい。

 博覧強記に裏打ちされた衒学趣味がいかんなく発揮され、デュパンはしばしば思弁的な芸術論や時代診断を語ってみる。またカール・マルクスが召喚され対決したりするあたり、ほとんど歴史小説的なてつきといっていいかもしれない。新聞王エミール・ド・ジラルダン、偉大な文豪オノレ・ド・バルザック、黒づくめの革命家ルイ・オーギュスト・ブランキ、ナポレオンの血脈に通ずるシャルル・ド・モルニーらが、容疑者として捜査線上に浮上するあたりの荒唐無稽具合を、しかし馬鹿馬鹿しく感じさせない筆致で語り切る。「盗まれた手紙」というモチーフを作中の事件の核として取り込んでいるあたりもお見事。

 さて、笠井はその探偵小説論のなかで、所謂本格探偵小説の成立に、第一次世界大戦の経験が極めて重要な意味をもったことを指摘している。

大戦が生産した無意味な屍体の山に対して、それを新たに意味づけ直さねばならないという衝動が、各国で普遍的に生じた。共産主義ファシズムも、表現主義シュールレアリスムも、またハイデガー哲学も、そうした磁場において大衆や知識人の心を掴んだのだ。/直接の戦禍を避けえた英米では、それらに対応し、それらを代補するものとして本格探偵小説が書かれ、かつ広汎に読まれたのである。ひとつの屍体に、ひとつの克明な論理。それは無意味な屍体の山から、名前のある、固有の、尊厳ある死を奪い返そうとする倒錯的な情熱の産物ではなかったろうか。*1

戦場で大量殺戮された、産業廃棄物さながらの死者の山に象徴される二十世紀的な必然性に渾身の力で抵抗し、固有の死を再建しようと努めること。同時に、それ自体としてはアナクロニズムに過ぎない固有の死、栄光ある死、名前のある死を描出しようとする結果として、裏側から大量死、些末な死、匿名の死の時代である二十世紀の必然性を照らしだすこと。これこそ大戦間に英米で発生し、そして盛期を迎えた本格推理小説の精神なのである。*2

 この『探偵小説論』のなかで、プレ第一次世界大戦=プレ大量死の時代の探偵について、笠井は多くを語ってはいない。この『群衆の悪魔』のおもしろみは、その第一次世界大戦以前の探偵のありようを語っている点にもある。

 本書の事件の仕掛けもまた、群衆の騒乱のなかで大量に生み出される死体のなかに、固有の名前をもった死体を隠すことで殺人の意図を隠蔽する、というもので、この発想自体はポスト第一次世界大戦の探偵小説の発想と相似形とみていいだろう。そのうえで、そうした「大量の匿名の死」の前提として、群衆という匿名の存在が跋扈する都市を措定した点に、19世紀という大量死の一歩手前の時代を描いた本書のおもしろみはあるのかもしれない。

「われわれの世紀の最大の謎とは、群衆という存在です。」*3

「だれもが、変哲もない凡庸な砂粒にすぎないのだから。恣意的な欲望の対象において刹那的な関係を結び、それも次の瞬間には霧散する。群衆とは、まさに他人と交換可能な脱け殻と化した人間だ。それが、われわれの現実の姿なんです」*4

「群衆による群衆のなかの死。その極点にまで逢着した以上、あとはもう、灰色のカンバスに真紅や金泥を塗りたくることしかできない。嘘でも偽物でもよい。まがいものであろうと、なにもない虚無よりはましだろう。灰色が不可避であるのなら、その華麗な反対物を捏造してやろう…」*5

  このように語るデュパンに笠井の探偵小説論が託されているわけだが、現在進行形で生起する事件の歴史上の意味を冷静に把握し、その帰趨すら見通しているようであるその様は、探偵を超えてさながら未来を見通す予言者のようにみえてしまう、というきらいがないではない。それはホームズが「最後の挨拶」で感受した冷たい風の予感のように微かな徴ではない。探偵の有能性を示す記号として、いささかやりすぎの感も否めない。

 しかし、歴史上の事実に基づいた——つまり映画版『薔薇の名前』や『イングロリアス・バスターズ』のような無法が禁欲された——フィクションで、実在の人物の犯罪を暴くという結末のなかで、「犯人を裁くわけではない仕方で探偵が勝利する」というアクロバットをやってのけるためには、そうした未来視の特権が要請されたのかもしれない、とも思う。ワトソン役の正体が明かされる結部が探偵の勝利であると知るのは、後世を生きる我々に与えられた特権なのだ。

 

 

 

*1:『探偵小説論Ⅰ』pp.20-1

*2:同p.36

*3:p.144

*4:p.154

*5:p.68