宇宙、日本、練馬

映画やアニメ、本の感想。ネタバレが含まていることがあります。

映画のなかのわたし‐たち——アニメ『映画大好きポンポさん』感想

映画大好きポンポさん オリジナルサウンドトラック

 『映画大好きポンポさん』をみました。久方ぶりの映画館、たいへんよろしゅうございました。以下、感想。

  幼い少女のようにみえる、敏腕映画プロデューサー、ジョエル・ダヴィドヴィッチ・ポンポネット。彼女に「死んだ目」を見出されアシスタントとして働く青年、ジーンは、伝説的俳優を主演に迎え、彼女の脚本をもとにした映画を監督することになる。映画が好きなこと以外、自分には何もないと自認する青年は、映画制作の末に何を見出すのか。

 杉谷庄吾による漫画を、ufotableで『空の境界』「矛盾螺旋」、『魔女っこ姉妹のヨヨとネネ』を手掛けた平尾隆之が映画化。原作がインターネット上で話題になってもう4年ほど経つだろうか。わたくしもその時原作に触れた人間の一人だが、正直、さほど優れた作品とも思えず、また作品世界をつらぬく素朴な精神性のようなものに強い苦手意識を感じたことを憶えている。そして、その苦手意識はこの映画をみて再確認したことでもある。

 「学校空間で努力を重ねてきたこと」に対比される、「孤独に趣味に耽溺すること」を称揚し、通り一遍の「幸福」を捨てることでしか価値あるものは生じないとする格率。それは作中で敏腕プロデューサーがさえない青年を見出した理由として語られることだ。映画の入場特典として配布されている前日譚の漫画を読むと、この作者は「学校空間に適応できない」人たちに象徴されるような、居場所のないものたちの救済の可能性を、映画という媒体、あるいは映画制作という営為にみているように感じられる。それ自体はよく理解できるし、そのようにしてある種の映画は多くの人を救ってきただろう。しかしその救済は、この原作で語られるような、安易な社会的成功に伴うなにかによってなされるようなものとはまったく違う手触りのものだとわたくしは信じるのだ。

 この映画は原作の素朴な精神性を継承している。それは明らかな瑕疵と思える。しかしそれでもなお、この映画は見事であったと言い切れる。それはひとえに、監督・脚本を務めた平尾の手腕によるところ大であろう、演出と脚色の妙に尽きる。「編集」にかかわるシーンを作品の核に置いてアクション的・ドラマ的な見せ場とするアダプテーションは冴えに冴え、また、映画青年の旧友として、おちこぼれ風の銀行マンを登場させたことで、この映画の射程は、卑屈な映画青年の自意識以上のものを得られたという気がする。

 無数の人の意思と呼吸と身体とで満ちた時間と空間を、「わたし」のものとして切り貼りし、あるいは切り捨て、そして「わたし」の時空間を立ち上げること。それが映画を映画として編集することなのだ、とこの作品は説く。この営みは極めて自閉的なものとも思えるが、しかし同時に、そうして「わたし」のものでしかありえないはずのものが、別の「だれか」にとっても「わたし」のものとして感受されうることの驚き。そもそもこの映画をほかでもない「わたし」のものとしてつくってきた青年自身もまた、ほかの「だれか」の物語をほかでもない「わたし」のものとして感受することを無数に繰り返してきたはずで、そうした「わたし‐たち」をめぐる奇跡の連鎖のようなものが、映画にはあるのだと語り切ってみせる。

 原作をある種「編集」して、「わたし」は「わたし」の物語を語り切ってみせた、自負と自信とがみなぎるこの映画が、多くの人に届くことを祈ります。

 

 

 

 

 というわけで映画は非常におもしろくみたのだが、特典の小冊子には結構おもうところがあり、それはこの映画青年ジーンくんにとって、「映画を見る」ことが初発から「社会関係のなかに埋め込まれたもの」みたいに立ち現れてないか?ということで、それはなんというか映画そのものへの素朴な驚き(こんなものを称揚することそれ自体がおそるべき素朴さであるということは措くとして)などいささかも信じていないんじゃないか、と感じたんですね。それはいかにもSNS全盛の醒めた目線の反映かもしれませんが。この映画青年は、結局のところ、映画ではなく「映画にかかわる情報」、あるいは「映画にかかわる人間関係」を愛することしかできないんじゃない、みたいなことを思う。どうでもいいことです。