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新しい神話のほうへ―—『DUNE/デューン 砂の惑星』感想

【映画パンフレット】DUNE デューン 砂の惑星 監督 ドゥニ・ヴィルヌーヴ 出演 ティモシー・シャラメ、レベッカ・ファーガソン ティモシー・シャラメ、レベッカ・ファーガソン、オスカー・アイザック

 『DUNE/デューン 砂の惑星』をみました。以下感想。

 銀河を支配する帝国。その有力貴族である名門、アトレイデス家は、銀河航行のために必要不可欠な物質、スパイス(香料)を産出する砂の惑星、アラキスの管理を命ぜられる。それは、近年力を伸ばしてきたアトレイデス家の力をそぐため、以前アラキスを領有していたハルコンネン家と抗争させようとする皇帝のたくらみによるものだった。抗争に巻き込まれるアトレイデス家、その宿命を背負う運命の男の戦いの始まり。

 フランク・ハーバートによって書かれ、幾度も映像化が企画され、そのいくつかが実現してきたSF大作に、『メッセージ』、『ブレードランナー 2049』のドゥニ・ヴィルヌーヴが挑む。退屈な時間が流れることに一切の躊躇をせず、絵画的な美しい画が百出するヴィルヌーヴ節がいかんなく発揮された、2時間半超の堂々たる横綱相撲。

 『スター・ウォーズ』や『ブレードランナー』など、すでに古典となった娯楽映画の続編はある種の手堅い企画になっているという感じもする。そのなかでもすぐれた作品には、「なぜいまこの作品が語られなければならないか?」という問いが必ず内在しているといってもよく、『スター・ウォーズ』であれば(いかに無様な出来であろうが)『最後のジェダイ』はまさにそのような作品だったのだし、ヴィルヌーヴによる『ブレードランナー 2049』もまた、我々の生がフェイクでまがいものでしかありえないという同時代の感覚と極めて強く共振した、2010年代において語られるべき『ブレードランナー』であった。

 対して、この『DUNE』は、少なくともパート1たるこの映画の時点では、そうした同時代的な問いは後景に退き、ほとんど反時代的といっていい、宇宙規模の神話的叙事詩を語ろうと試みているように思える。重厚なトーンで美しい絵を連発していくスタイルにはヴィルヌーヴという作家の署名といえるが、一方でこの映画の現代性はまさにそのルックのみに宿っていて、現代の技術で神話を再生産することで、我々の時代という射程をはるか越えた、普遍的なマスターピースをつくってみせるといわんばかりの自負がみなぎっている。

 たとえ旧三部作にその出来がはるかおよばなくても、『最後のジェダイ』には「いま」我々がみるべき価値が確かにあった(そしていうまでもなく、『スカイウォーカーの夜明け』は旧作にはるか劣る上にいまみる価値もほとんどない不誠実極まる代物であった)。『ブレードランナー 2049』をのちの時代の人間がみるとしたら、そこに我々の時代の空気のようなものを読み取りうると信ずる。対して『DUNE』はそのような時代性のようなものが希薄である。

 すると、この作品は過去のマスターピースたちとなるわけだが、いかにもそれは分が悪いという気がしてならない。『ホドロフスキーのDUNE』などを参照すると、この『DUNE』がかつて数多のフィクション——『スター・ウォーズ』など——の想像力の源泉となったことが把握されるが、2021年のいまになってみると、この『DUNE』がそれらあまたフィクションのコラージュにみえてしまうのだ。これはある種の倒錯なんだけど、砂漠の惑星、不可思議な力、強大な力をもつ帝国、運命に選ばれた青年...などなどめっちゃ『スターウォーズ』やんけ、となっちゃうんですね。

 海外の批評家はこの作品を極めて高く評価したというが、それは感情的に理解できる、という気がする。この超時代的な叙事詩が完結したとき、このパート1を「適切に評価できなかった人間」として記憶されるというスティグマは、いかにも耐え難いだろうから。でも一方で、それは不誠実な青田買いじゃない?という気もやっぱりするのだ。

 ドゥニ・ヴィルヌーヴという作家は、新しい神話のほうへと一歩を踏み出した。しかしその神話の全容がみえないなか、この『DUNE』を適切に評するのは困難だと思う。完結のあかつきにはもう度肝を抜くようなどえらい物語がぶちあがっていてほしいと切に願います。

 

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