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繋ぐ意志、翔ぶ群れ——古舘春一『ハイキュー!!』感想

ハイキュー!! 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 完結したら読もうと思っていた古舘春一ハイキュー!!』、ようやく読みました。わたくしは『週刊少年ジャンプ』のよい読者では最早ありませんが、同誌の歴史上に燦然と輝くマスターピースではないでしょうか。ほんとうにすばらしい漫画だった。以下、感想。

 宮城県、県立烏野高校。かつて、「小さな巨人」とよばれたエースを中心に県下の高校バレー界に旋風を巻き起こしたが、指導者が去ったいま、往時の輝きを失っているかにみえた。その古豪の県立高で、「小さな巨人」にあこがれて入学した小柄な少年、日向翔陽と、中学時代に彼を一方的に叩きのめした「コート上の王様」影山飛雄が出会い、物語は始まる。

 古舘春一による連載2作目にして、そのバレーボール経験を惜しげもなく活かした、まさに渾身の勝負球。『スラムダンク』の桜木・流川の記憶を喚起する日向・影山の一年生コンビの入学から、インターハイ予選を経て、1月の春高バレーまでの一年間と、数年後を描いたエピローグからなる。2012年から2020年までのおよそ8年間の長期連載で、捨て試合が一つもないことに慄く。主人公たちの試合はどれも明確な課題設定をもって描かれ、そこに強い緊張感が生ずる。その課題がクリアされ、試合を重ねるごとチームの面々が少しずつ高く翔べるようになっていくさまに、素朴に心を動かされる。

 主人公たちからして「日向」と「影」で対比され、また主人公たち「カラス」に対して、「ネコ」、「カモメ」などなど、随所に記号的な対比を仕込んでプロレス的なわかりやすいアングルを提示しつつ、超自然的な描写は排してスポーツが能力バトル化することを回避し、大胆にマンガ的で、しかも同時に誠実なスポーツマンガになっている稀有なバランス感覚。外連味たっぷりに描かれる必殺技のような戦術の数々も、おそらくバレーボールという競技においてそうであるように、万能の武器としては描かれないし、どんな選手もミスを犯す、ある種のリアリズムも徹底している。

 対戦相手を「敵役」にしても「悪役」には決してせず、指導者の大人たちも極めて理性的。『スラムダンク』の山王工業戦における、「オレは今なんだよ!」に対するアンサーのごとく、主人公が退場するシーンに端的にあらわれているが、スポーツをめぐる価値観のアップデートに対する目配りが、このマンガに対する強い信頼を担保していると思う。

 この『ハイキュー!!』の強い魅力の一つは、やはりバレーボールという競技において画になる瞬間を的確に切り取り、コマのなかに提示してみせる、その手際だろう。運動としてのバレーボールのゲームを、ほとんど切れ間なく進行させるための描写の経済性とでも言おうか、最小限の労力でゲームの運動を描きつつ、見せ場では大ゴマをつかって選手の飛翔を大胆に提示してみせる。

 印象として、春高バレーが開幕してからは空間としての体育館が印象的に描写されるようになったという気がしているのだが、これは『黒子のバスケ』でアシスタントをつとめたあと、このマンガにアシスタントとして加わった波切敦の力によるものなのだろうか。だとすれば、波切のこのマンガに対する貢献度は極めて高かったと思う。

 バレーボールのゲームをマンガに落とし込むなかで、それがまさしく、コマとコマとを「繋ぐ」マンガの運動として表れているのが素晴らしい。バレーボールとはいかなるゲームか、という問いに、この作品そのものの在り方によって回答しているというスマートさ。それによってボールが繋がり、コート上の選手たちがさながら一つの有機体のごとく運動しているさまが、生き生きと描写される。この群れとしてのチームのほとんど異様な一体感こそ、このバレーボールというゲームが生み出すドラマの核心なのだと『ハイキュー!!』は教える。

 この無数の群れが各々の道を見出しているさまを執拗に書き込み続けたエピローグは、彼ら・彼女らの人生が疑いなくそのコートに繋がっているのだと示す。各々が各々の仕方でそこと繋がることができる、それこそがバレーボールの、あるいはあらゆる運動の特権なのだと謳いあげているようにも思えた。

 

 

 

 

 東京オリンピックの招致決定前に連載が始まり、そして延期が決定していた時期に完結を迎えたこの漫画は、その延期すら作中に取り入れていて、すこし驚きました。

 個人的ベストマッチは春高予選の青葉城西高校か、白鳥沢学園高校ですわね。このあたりはマジで意味不明においおい泣きながら読んでいました。