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きっと何者かになれるわたしたちが、何度でも呪いを打ち払うだろう——『劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM [後編] 僕は君を愛してる』感想

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 『RE:cycle of the PENGUINDRUM [後編] 僕は君を愛してる』をみました。このようなタイミングでこの作品が公開されること、TV版もそうでしたが、作品自体が歴史に要請されて存在する、そのように錯覚してしまうような感覚があります。恐るべきことです。以下、感想。

 高倉冠葉、晶馬の兄弟は、病に侵された妹の陽毬を救うため、「ピングドラム」を手に入れるため奔走する。亡き姉の幼なじみの男をストーキングする少女、荻野目苹果のもつ日記帳が「ピングドラム」なのではないかとあたりをつけた兄弟だったが、何者かに日記帳は奪われてしまう。そんななか、苹果の姉、桃果は、95年にある集団によって起こされた、地下鉄テロ事件によって亡くなったのだと知り、兄弟は戦慄する。なぜなら、そのテロ事件の首魁は、彼らの両親だったのだから...。95年の事件をめぐる呪いが3人の兄妹を翻弄し、運命が紡がれる。

 2011年に放映されたTVアニメ『輪るピングドラム』の劇場版、その後編は、前編に引き続きTVシリーズのストーリーに沿って展開される。新作パートや新楽曲もあるけれど、「RE:cycle」のタイトル通り、TVシリーズの物語にわたしたちが再び出会いなおせるような、そのような作品であったと感じる。

 "AFTER'45"が流れる中、夜の東京、ビル街を実写で次々映してゆくシークエンスは、前編の実写シークエンス同様、この劇場版のひとつのハイライトだろう。前編は実写にキャラクターがコラージュされていたが、後編はキャラクターも不在でカットを次々と切り替えて建物や街並みを次々映し、「音を聴かせる」ことに強く焦点を合わせた演出のようにも感じた。

 「きっと何者にもなれない」ことを運命づけられた子どもたち、その生が祝福のなかにあるとはいえない子どもたちがそれぞれに彷徨するという全体のモチーフは無論TV版と通底していて、時間の制約の中にあってなお、主要なキャラクターたちの苦悩と結末とを省略しなかったことは、『輪るピングドラム』がいかなる作品だったか改めて教えられたという気がした。高倉家のきょうだいたちだけでなく、運命の人を喪失してしまった悲しみを抱えた彼と彼女、あるいは兄に棺から救い出してもらった彼女も、この作品にあって絶対に欠けてはならないドラマのアクターなのだ。

 さて、この劇場版にあって、ある種の枠物語のようにして添えられた、冠葉、晶馬の生まれ変わりのようにもみえる二人の幼い少年と邪悪なペンギンの物語は、TVシリーズがわたしたちにかけた呪い、おそらく作り手がまったく意図しないかたちでかけてしまった呪いを解くために語られたものだった、という気がする。また、TVシリーズの結部において「列車はまた来る」と予言した、悪意のメタファーを名乗る男と、その予言通りに対峙するためのものでもあっただろう。

 「きっと何者にもなれないお前たち」と名指されたわたしたちの11年。その強烈なフレーズだけがしばしば独り歩きし、作品を象徴するワードであるにとどまらず、作品の文脈を越えて思わぬところに届き、誰かを煩悶させたかもしれないこの一節を、劇場版は「きっと何者かになれる」と極めて楽観的な調子で上書きしてみせる。それは、1995年放映のTVシリーズ以来、「このわたしはなぜ生きるのか」という煩悶にとらわれ続けてきた『新世紀エヴァンゲリオン』が、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』ではそうした煩悶以前に「現に(あるいはすでに)生きてしまっているわたし」という境地に立つことでなんとか作品に決着をつけてみせたことと、あるいは重なるのかもしれない。

 だから、「列車はまた来る」のだとして、そんなことはたいした問題にはならないのだ。呪いがなんど巡りきたれども、わたしたちはそれをそのたびごと打ち払える。TVシリーズにおける、呪いとわたしたちとの無限の闘争、その影を引くような暗さはこの劇場版にはない。ほとんど寝物語のおとぎ話のごとく呪いは打ち払われ、わたしたちの愛は十全に勝利する。11年の時を経て再びめぐったこの愛と運命の物語が、このようにしてわたしたちを祝福してくれたことを、とてもうれしく思う。

 

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