新海誠監督の最新作『すずめの戸締り』が宮崎駿監督『魔女の宅急便』の影響下にある...というの明言していたので、公開前に再見せねばという気持ちがあり、実行した次第。以下、感想。
1989年に公開されたこの『魔女の宅急便』との出会いは、おそらく金曜ロードショーによるTV放映だったろうと記憶している。幼いころ、普段なら床に就いている時間にTVにかじりつき、13歳の魔女、キキが海辺の街で繰り広げる冒険に胸おどらせた...という凡庸な体験を、日本列島に生まれたある世代は共有しているのではないか、という気がする。ついこのあいだも金曜ロードショーで放映されていたようだし、「国民的アニメ」という共同幻想は、間違いなくテレビというメディアによって与えられた経験に基づくものだろうとつくづく実感する。
幼心には、キキが両親のもとを離れ、大都会(のようにみえる街)であたらしい生活をはじめる...という筋立てが、まさしく大冒険のように感じられた。親元で暮らし、自分自身の自由になる移動手段ではそう遠くにもいけない子どもにとっては、たしかにそれは大冒険だっただろう。
一方、いま見返して感じたのは、この映画のなかで描かれる冒険は、極めてミニマルな生活世界のなかで完結している、ということ。海辺の街はそれなりに栄えていて、通りは自動車でごった返しているし街中に人もあふれているが、キキとある程度の深さで関わるのはごくごく限られた人間だけである。居候先のパン屋の夫婦、ちょっかいをかけてくる少年、幾人かの印象的な客、そして偶然出会った絵描きの少女以外の人間たちはほとんど背景のような存在にすぎない。大きな都市にあって、彼女の生活世界はごくごく小さなかかわりのなかで完結しているようにもみえる。それは端的に、都市生活者のありふれた孤独だともいえるだろう。
そうした小さな生活世界が舞台になっているのは、この映画がおそらくは数週間、長くても数か月程度のごく短い期間だけを舞台にしているからで、新参者の宅配業者は、わたくしが記憶していたよりはるかに仕事をしていない感じがしたのでびっくりした。生活費を意識する場面はあれど、基本的にパン屋夫婦に面倒をみてもらっているキキは、独り立ちした労働者というより、せいぜい留学先でホームステイする少女という感じがする。
当時は少女の大冒険にみえたこの映画も、いまみると田舎者が上京するありふれたイニシエーションのように映り、そうしたときに都市の人間たちの薄情さや、世慣れぬ田舎者の所作などのリアリティ感覚が心を強くざわつかせたりもする。この作品の前年に公開された『となりのトトロ』もまた、子どもにしか経験しえない大冒険を主題にしているという点は重なる。しかし、それは大人の目で眺めても十分に驚嘆しうる、不可思議な冒険でもある。一方この『魔女の宅急便』は、子どもの目線と大人の目線で大冒険にもありふれた成長譚とに分節される、奇妙なバランス感覚のうえに成り立っているのだ。
宮崎駿のその後のフィルモグラフィを眺めても、その後の『もののけ姫』は世界の破局と対峙する大冒険だし、『千と千尋の神隠し』もイニシエーションを主題にしながらもそのリアリティは生活世界からはるかに遊離している。その意味で、この『魔女の宅急便』はある種ユニークな位置を占めるフィルムだと思うのだ。そのミニマルな生活世界に基礎づけられるがゆえに、クライマックスのデッキブラシによる飛翔は、じりじりとした不安と、そこからの解放とが感受される、素晴らしいシークエンスたりえているのだとも思う。
関連
ある種の「上京」(と労働)の物語としてみるなら、『天気の子』からしてすでに『魔女の宅急便』と相似形では?という感じがしましたが、『すずめの戸締り』をみてあっと驚くなにかがあることを、いまから期待します。