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反知性主義的知性主義の再建のために——福間良明『「働く青年」と教養の戦後史: 「人生雑誌」と読者のゆくえ』感想

「働く青年」と教養の戦後史: 「人生雑誌」と読者のゆくえ (筑摩選書)

 福間良明『「働く青年」と教養の戦後史: 「人生雑誌」と読者のゆくえ』を読んだのでメモ的に感想を残しておきます。

 文学、思想などに関する読書によって人格を陶冶し、自分自身をよりよいものにしていこうとする教養主義。その「没落」は指摘されて久しく、現在ではある種のスノビズムのよりどころ以上のものではないそれが、広く共有された時代があった。その担い手は竹内洋教養主義の没落』が描いたような、旧制高校の流れをくむ大学生、すなわち当時のエリート中のエリートたちであったが、一方で教養主義はエリートの独占物というわけではなかった。

 本書は『葦』や『人生手帳』など、人文系の知識人による論説が掲載され、またその多くは高校進学も断念せざるを得なかった労働者であった読者による投稿欄が活発に機能していた雑誌―—著者はそれを「人生雑誌」とよぶ——を分析し、ノン・エリートたる「働く青年」たちの教養主義、その栄光と没落とをたどる。ある意味で『教養主義の没落』の裏面史ともいえる。

 著者自身による(本書の一部に対する)解題といっていいだろうテクストがウェブ上に公開されていて、またいくつか書評も出ている。

実用系雑誌『BIG tomorrow』の原点には、教養主義? 『「働く青年」と教養の戦後史』より|じんぶん堂

<書評と紹介>福間良明著『「働く青年」と教養の戦後史 : 「人生雑誌」と読者のゆくえ』

<書評>「カタギ系」青年たちの精神史 --福間良明『「働く青年」と教養の戦後史』(筑摩選書)を読む

 上記の書評でも触れられているが、わたくしが特におもしろみを感じたのは、教養主義に惹かれる働く青年たちにみられた「反知性主義的知性主義」と著者が形容する態度。

「一部遊人」つまり知識人たちによって独占される知を解放し、大衆層がそれを手にすることによって「勤労大衆のレベルの向上、人間的な自覚」の実現をはかる。こうした意志を、そこに読み取ることができる。一見相反する知識人批判と知や知識人への憧れが両立し得たのも、こうした論理によるものだった。

 そこには、反知性主義的知性主義とでも言うべきものを見出すことができるのではないだろうか。文化的な覇権を有する知識階級への憎悪を抱きつつ、知や教養、さらには知識人への憧憬が併存する状況は、一見、矛盾含みのようにも感じられる。しかし、その内実に分け入ってみると、両者の間には順接の関係性を見出すことができる。高等教育を受けられなかったにもかかわらず、知や教養に憧れを抱くことは、必然的に知識人層によって知が独占されることへの嫌悪を生む。そして、こうした心性は、知識人とも対等であろうとする平等主義的な価値観によって支えられているのだ。*1

  この知識人に対するリスペクトと反発のアンビバレンスは、1960年代に高校進学率が上昇し、教養主義とそれにささえられた「人生雑誌」の共同体も衰退していくことによってなくなっていったが、しかしリスペクト抜きの「知識人への反発」だけは残ったとしていて、それは現在の大学教育をめぐる議論―—経済界が「役に立つ」ことを大学に求め続ける——にも尾を引いているし、またほとんどチンピラといっていいだろうインフルエンサーもそうした安易な知識人批判を飯のタネにしているようにも思える。いま・ここを、教養主義の敗退の先の焼け野原としてみる視座を与えてくれるという意味でも、竹内洋教養主義の没落』と並べて読み継がれる価値のある本でしょう。

 また、1950年代の教養主義に惹かれた若者たちは、その実学軽視の傾向が低い社会的価値を再生産する結果になったのではという指摘もあり*2、このあたりの悪弊はわたくしを含む現代の似非教養主義者たちが継承してしまっているところよな、とも感じる。このあたりはベンジャミン・クリッツァーが指摘しているとおり。

 教養主義の復興を反知性主義的知性主義の再建にパラフレーズしてみると、わたくしたち現代の働く青年たちにもなにがしかできることがあるんじゃないか、いやあるといいね、と、なんとなく思いました。

 

 

 

*1:p.63

*2:p.187