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教訓はない、映画はある────『悪は存在しない』感想

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 『悪は存在しない』をみました。以下、感想。

 山奥の集落で、「便利屋」として周囲とかかわりながら、娘と暮らす男。ふいに、集落に「グランピング施設」の建設が計画され、その説明会が行われることになる。建設の主体は芸能事務所で、新型コロナウイルス感染症を受けての補助金の受給を狙ったものと邪推するものもいた。説明会での芸能事務所の担当者の様子は、あきらかに準備不足、集落への理解を欠いたものであり、住民を憤らせ、あるいは呆れさせる。「もう一度やりましょう」という便利屋の男のひとことでどうにか状況は収束し、また芸能事務所の担当者も便利屋の男を頼みの綱として、どうにか妥協点を探り始めたようだったが…。

 『ドライブ・マイ・カー』で一躍その声望を高めた濱口竜介監督の最新作は、予想外にもミニシアター中心のミニマルな公開規模で、2時間弱という常識的な尺の作品となったが、作品自体もまた、観客の予想を裏切る手触りをもっていた。

 冒頭、石橋英子のスコアに乗って山林を下から移していくカットに象徴されるように、ゆったりとした時間の使い方を感じさせる場面は多い。薪を割り、清流で水をくむ男の所作を贅沢に映す。山村や森の場面は極めて静謐で、東京が移される場面の環境音の騒々しさが対照的になっている。とはいえ薪を割る場面でのチェーンソーのけたたましく不穏な響きなど、単に山村と都市とを静謐と騒然との二項対立に回収されないものとする手つきも感じられる。

 はじめ、わたくしは山村の住民と都市の代理人とが、便利屋の男を仲介として歩み寄り、妥協点を見出すようなストーリーラインを想像していた。たとえば都市の代理人たる二人を主人公とするなら、そのような物語はいかにもおさまりがよいようにも思える。とはいえ山村の住民と芸能事務所の男との対立というか、住民が男に向ける生理的な不快感のようなものは根深い。たとえばうどんをたべて「体があったまりました」と述べた男に対して「それ味の感想じゃないですよね」という返答は、(なにも食べたらかならず味の感想を述べなければいけないわけではないのだから)男の存在自体への拒絶を含むようにも思える。

 そのことがウェルメイドなストーリーラインに一定の困難(とその解決にともなうカタルシス)をもたらすことまで想像できよう。が、この映画はそうした方向から一気に飛躍し、サイコスリラー的な事態が起こることで唐突に終幕を迎える。『ドライブ・マイ・カー』は3時間もの上映時間のはてに、「それでも生きていかなければならない」という、最低限の倫理めいた発話がなされ、そのほとんど素朴といっていい言明を陳腐なものにしないために、長大な上映時間が尽くされたという気がした。この、「それでも生きていかなければならない」という感覚自体は、明確に言葉としては発話されないが、『ハッピーアワー』の結部で観客の胸に去来するものでもあったという気がする。一転、この『悪は存在しない』はそうした教訓めいた言明に映画が収斂することなく、なにかが拡散してすり抜けていったような感覚が残る。濱口竜介という作家は、『ドライブ・マイ・カー』だけが映画ではないのだと、改めて宣言しているようにも思えた。

 

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