
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』をみたので感想。
生放送中に人気司会者を殺害し、一躍時の人となったアーサー・フレック。事件の鮮烈さからジョーカーとよばれ、一部でカルト的な崇拝の対象となっていたが、事件から2年がたち、病院に収容されて裁判を待つ身となっているアーサーは、憔悴し気力を失っているようにみえた。裁判の期日が近づく中、同じく病院に収容された女、リーがジョーカーの崇拝者だと知り、仲を深めていく。そうしてふたたび、アーサーのなかにジョーカーが育っていくのだが...。
2019年に公開されたトッド・フィリップス監督『ジョーカー』の続編は、前作である種のアイコンと化してしまったジョーカーの神話を解体し、落とし前をつけようとする試み。要約するなら、アーサーが肥大してしまった偶像であるジョーカーとしての自己を背負いきれなくなり、破滅するというありきたりな悲劇におさまっている。
アーサーは超自然的な力を持たず、またそのような力をもつ存在も劇中に登場しないため、この無力な男は精神病院の檻から脱出することはかなわず、また都合よく脱出を手助けしてくれる存在もあらわれない。だから基本的な舞台は塀の中と法廷になり、どうしても広がりに欠けるが、そこをレディ・ガガ演じるリーがあらわれることで、ミュージカル風の場面が挿入されるようになり、そこで映画に起伏をもたらそうとしている感じはある。とはいえ、映画全体のトーンは陰惨で退屈。そしてその退屈さは明白に意図されたものでもあるのだろう。
前作を鑑賞したとき、この映画のクライマックスは孤独な男が徹底的に自分自身のためだけにコメディを演じることを決意するモーメントにあると書いた。
だから、アーサーが群衆の歓呼に迎えられる場面は結果としてそうなっただけであって、彼の物語にとっては本質ではないと思っていたのだが、この『フォリ・ア・ドゥ』はむしろ、そうした歓呼の声による救いをアーサーが求めてしまうというか、それによって救われると錯覚してしまうようなトーンがあり、だからこの二部作は「ジョーカー」というヴィランのオリジンというよりは、アーサー・フレックという孤独な男の一代記だったのだなと感じる。だから結局、彼はジョーカーとして世界と対峙することから逃走し、アーサー・フレックとして運命の女に承認されることで救われようとする。その残酷でありきたりな結末は、いうまでもなく『ジョーカー』の神話を解体しようとするものだろう。
クリストファー・ノーラン監督『ダークナイト』でヒース・レジャーの名とともに伝説となったジョーカー。そこからずいぶん遠く離れた場所に我々はいる。

