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「歴史を書く」とはいったいどういうことか───松沢裕作『歴史学はこう考える』感想

歴史学はこう考える (ちくま新書)

 『歴史学はこう考える』を読んだので感想。

 本書は、歴史学者である著者が、「歴史家」の営みはどのようなものか、具体的な史料の読解のプロセス、そして論文の読解を通して論じる、ある種の歴史学入門。著者は日本近代史を専門としていて、事例もそのあたりが中心となる。著者のこれまでの著作には『生きづらい明治社会』や『自由民権運動』などがあり、とりわけ前者は、明治時代の「生きづらさ」をながめることを通して、わたしたちを暗黙のうちに縛るロジックを摘出する、すぐれた啓蒙書であった。

 思い返してみると、歴史学にかかわる新書では、優れた通史のシリーズやテーマ研究、概説書は多く出版されているが、歴史学そのものの入門書って意外とないのかもしれない。思い浮かぶのは小田中直樹歴史学ってなんだ?』、同『歴史学のトリセツ』とかか。

 『歴史学ってなんだ?』は刊行から20年以上経っているが、歴史学歴史小説の違い、歴史学にとって事実とはなにか、また歴史はどう「役に立つ」のか、といったトピックを扱っていて、それらの記述はいま読んでも十二分に面白い。

 さて、『歴史学はこう考える』は、歴史が多かれ少なかれ利用されて「役に立ってしまう」状況を踏まえて、じゃあ変な利用のされ方に注意できるように、そもそも歴史を記述するという営みの内実を腑分けしてみていこう、という問題意識で書かれている。

 特におもしろく読んだのは、歴史学の論文3篇を扱い、その記述の論理、そしてその暗黙の前提を読み解いていく第3章から第5章。第3章と第4章で扱われている論文はウェブ上でも読むことができるので、以下にリンクを貼っておく。

repository.kulib.kyoto-u.ac.jp

www.jstage.jst.go.jp

cir.nii.ac.jp

 この論文読解の提示は、(わたくし自身の経験から思い返すと)大学のゼミでもあんまりこういう風には教えてもらえないんじゃないかという気がして、それは第一に、歴史学を専門とする学生だと議論の前提として了解している事項でもあるということがあると思うが、それ以上に、そもそも意外と誰も明確に言語化してこなかったことが、本書で改めて言語化されている、という印象を受けたんですね。

 たとえば、史料の読解をふまえて、論文の著者はなにを、どの範囲で、どのくらいの確かさで論証しているか、のようなことをかなり丁寧に記述していくのだが、そのあたりの言葉の使い方の綾については、(わたくしもさほど多く読んでいるわけではないけれど)歴史学入門的な書籍でもこれまで書かれてこなかったという気がする。

 そのあたり、「あたりまえ」に実践されているが、それゆえ明白に意識化されてこなかったことを改めて明示的に記述してみる、という本書の叙述は、社会学の方法論の一つであるエスノメソドロジーを想起しながら読んでいたが、「おわりに」でまさにエスノメソドロジーを意識的に参照していることが記されていて、まさに!と感じたのでした。

 こうしたことが可能なのは、歴史学の論文がおおむね、先行研究の整理を経て史料の読解、ある種の歴史像の提示という構造をもっているが故だと思う。それはある意味で、歴史学の営為がクーンのいうところの通常科学的な側面を持つからだろう。一方で、歴史学者の実践は論文の執筆のみにあるのではなく、一般向けの啓蒙書や、通史的な歴史記述もまた、歴史学者・歴史家の仕事だろう。無論、その背景には論文という形式で出された学問の成果があるわけだが、一方で啓蒙書や通史の記述のありようは、本書が扱う論文とはまた異なったもの────ある種の典型のようなものを摘出できないもの────のような気がする。そう考えた時、歴史家の仕事のエスノメソドロジーにとって、たとえば通史を書くという実践はどう記述されうるか、というのは気になったりした。

 というわけで、本書は歴史学というものを対象にしたエスノメソドロジーであり、そのこと自体が歴史学という学問への入門にもなっているという、新書というフォーマットでありながら野心的で、ユニークな書籍になっているという気がしました。少なくとも通り一遍の概説にはまったく収まらない本である気がするので、その意味で、歴史学という営みから離れてひさしいわたくしにも刺激的な読書でした。