浅野智彦『「若者」とは誰か アイデンティティの社会学』を読んだので感想。
本書は、社会学者である著者が、この40年のあいだに若者のアイデンティティがどのように変化してきたかを跡付けようとするもの。本書のキーワードは多元化で、この趨勢がデータなどで裏付けられ、またその多元化に批判的な論者に対しても、自己の多元化は必ずしも(全面的に肯定できるものではないにせよ)ネガティブなものではなく、今後よりよい社会の在り方を模索するための足場・手がかりとするべきとする。
本書はまず2013年に『「若者」とは誰か アイデンティティの30年』として出版され、その後二度の増補改訂を経て現在の副題に改題され2024年に再刊されたもの。本論はおよそ10年前に書かれているが、増補部分に記載のように、自己の多元化という論旨はおおむね10年後にも通用するものだったが、一方で世代間の差違が縮小傾向にあり、「若者」というカテゴリーが成立する基盤が失われつつあることが指摘されている。
さて、本書を読んで印象に残ったのは、アイデンティティをめぐる語りが「消費する自己からコミュニケーションする自己へ(そして多元的自己へ)」ということを指摘し、それが所謂オタクに仮託されるかたちで言説が流通してきたという指摘。
著者はオタクという言葉が三つの次元を混在させながら流通してきたことを指摘しているが、この整理はかなりクリアカットだと思う。三つの次元とは以下の通り。
- 彼らが消費している対象の次元(消費の次元)
- 作品を消費する過程で彼らが展開するコミュニケーションの様式(コミュニケーションの次元)
- そのコミュニケーションの根底にあると周囲から想定される彼らの人格(人格類型の次元)
中島梓『コミュニケーション不全症候群』や宮台真司『サブカルチャー神話解体』などの若者語り=オタク語りを、この3つの次元を組み合わせたものとして整理する手つきはなるほどと読んだし、現在でもオタクをめぐる言説を読み解くための有効な整理と感じた。
近年の「推し」をめぐるエコノミーと言説について本書では特に論じられていないが、本書を手掛かりになにか思考を巡らせたりできるかも、と感じる。雑駁な社会批評の域を出ないが、自己が多元化するなかで、ある種の不安定さの解消のためのアンカーとして、消費とコミュニケーションの次元に深く根差したかたちでのコミットメントが要請されているのでは、とか。