本書は、富野由悠季を(さまざまな場面で自身の思想を語る文化人としてではなく)日本のテレビアニメ黎明期からかかわってきたアニメーション監督としての側面から、そのキャリアのはじまりから現在までを丹念に論じている。富野由悠季の膨大なフィルモグラフィを一望するだけでも大変な苦労と推察するが、アニメーション作品そのものは無論のこと、絵コンテや脚本などの中間制作物を読み解き、また本人のインタビューや関係者の記録などもときに参照して、富野由悠季の仕事の全体像を示そうと試みる労作。
富野由悠季がアニメの現場に入ったのは『鉄腕アトム』放映中という、まさに日本のテレビアニメが動き始めたまさにその時。『鉄腕アトム』の現場で行われていた、過去の放映回の素材を組み合わせてまったく別のエピソードを立ち上げるというやり方は、わたくし個人はそんな成り立ちの回があるとは知らなかったので素朴に驚いたし、富野がその後てがけることになるテレビシリーズの総集編としての劇場版のメソッドは、この『鉄腕アトム』の経験が原型となっているのだなと得心するようなところがあった。
また、テレビアニメ黎明期には監督という立場・役割が必ずしも明確でなく、実写畑出身の制作者からノウハウが移植されることで「アニメーション監督」という職能が明確化していったのでは、という指摘はなるほどと感じた。
中間制作物や関係者の証言なども参照した作品の成り立ちの分析がとりわけ厚いのは『機動戦士ガンダム』など、企画段階からどのように変遷をたどり、富野由悠季自身の作家性によって作品がどのように生成していったのか、また富野自身の考え方にどのような変化が生じたのか辿っていて、その丹念な記述には舌を巻いた。『GQuuuuuuX』で縦横無尽の活躍をみせたニュータイプ、シャリア・ブルって、企画段階ではラスボスの名前だったのかよ!(実際にアニメに出てくるシャリア・ブルとはまったく異なる人物のようだが)とか、ディテールもおもしろく読んだし、実際に丹念な画面の分析を示されると、富野自身が自著『映像の原則』に忠実であるさまが理解されておもしろい。
さて、本書は富野由悠季という「戯作者」にとってのテーマを、「自我と科学技術と世界の関係性を描く」*1としていて、この「自我/科学技術/世界」という三要素が、近年の作品では「身体/お祭り/大地」という構図へと変容している、と大きく見立てている。「自我/科学技術/世界」の主題は『伝説巨神イデオン』で明確化し、『逆襲のシャア』で一つの達成を見ることになる。その後、心身の不調からの回復のなかで身体性が強調されるようになり、それが『機動戦士Zガンダム』のテレビ版と新訳劇場版の差分のなかではっきりみてとれる。そして、『ガンダム Gのレコンギスタ』において「身体/お祭り/大地」がはっきり立ち上がってくる、というのがおおまかな見取り図だろうか。
本書の見立てである、「自我と科学技術と世界の関係性を描く」というのはテーマとしてはかなり普遍的で、富野由悠季のテーマ性というよりはSF作品全般の主題なのでは、という気がしてしまう(例えば小松左京や伊藤計劃の作品でも「自我/科学技術/世界」の枠組みで読み解くことは十分可能だと思う。)一方で、現在の富野が到達した「身体/お祭り/大地」は、まさに富野由悠季の富野らしさをまさに摘出しえていると思う。
わたくしは近年の、というか『∀ガンダム』以降の富野由悠季の大きな興味の一つは、自己運動する暴力と人類との関係ではないかと思っていて、そのことを以前ブログに書いている。
この暴力との関係でいっても、「身体/お祭り/大地」、特に祭りと大地は重要なポイントになる気がしていて、暴力を昇華するものとしての祭り、暴力を受け止めてなお屹立する大地、というものをわたくしは見落としていたという気がした。かつて「大地」に立たせたガンダムが、ふたたび大地を発見し、そこに帰ってゆく。願わくばその続きを、富野由悠季という作家には探求してもらいたい、と強く思う。
とにかく労作で、おもしろく読みました。富野由悠季という作家にとって、たとえば宮崎駿にとっての切通理作『宮崎駿の〈世界〉』にあたるような、重要文献の一つだと思います。
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*1:p.233