この週末の参院選に絡んで、思うところを書き留めておきたい。
2025年夏の参議院選挙。これまで反ワクチンと排外主義を党の核心に置いた泡沫政党、カルト勢力としか思っていなかった参政党が、一躍勢力を伸ばす見込みと報道があり、愕然とするとともに強い危機感を抱いている。
上記報道では、8~18議席との見通しが出ている。先般も、その憲法草案に国民主権が書き込まれていない、国民の要件を「国民は、子孫のために日本をまもる義務を負う」などと規定するなど、極めて無知かつ反動的なものだと批判が沸騰したばかりだったし、選挙戦のなかでも代表の神谷が治安維持法に肯定的なニュアンスで言及したことなどが報道された。
この選挙ではとりわけ「日本人ファースト」を掲げていることが目につくが、このような主張をする政治団体を支持することは、多くの人が生きづらさを抱えているが、それでも戦後半世紀以上にわたってなんとか維持されてきた、わたしたちの生きる日本社会が根こそぎに破壊されることを肯定したも同義であるように思える。
そのような政治団体がなぜ支持を拡大しているか、その分析はこれから出てくるだろうが、そこにわたくしたちの社会にうすぼんやりと広がる排外主義、レイシズムの影をみないわけにはいかないだろう。2000年代の2ちゃんねるでまかり通り、それが「在日特権を許さない市民の会」というかたちで結晶し、またおそらく安倍晋三政権が支持を調達するための源泉の一つとなったであろう、そうしたうすぼんやりとした不寛容さ。失われた30年のなかでわたくしたちが(おそらく経済的な豊かさと抱き合わせのかたちで)手放していった、余裕や希望のようなものの代替品として要請された、他者へのほの暗い憎しみ。そうしたものが、この参議院選挙で国政レベルで一気に噴出しているように思えてならない。
社会の不安定化とパラレルで生じる排外主義。ここで、極めて単純な連想ではあるが、第一次世界大戦後のドイツで権力を掌握し破局的な戦争へと突き進んでいった、ナチスとその領袖、アドルフ・ヒトラーのことを想起しないわけにはいかない。それはわたくしがちょうど、石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』を再読したばかりだからというのも大きい。
石田の著書は、第一次世界大戦後、ヒトラーの登場からナチスによる政権の掌握、そしてユダヤ人やロマ、障碍者などの虐殺を引き起こした破局的な戦争までをたどった入門書的通史。この本が優れているのは、そうした教科書的な通史の叙述とともに、「なぜヒトラーが政権を獲得できたか」、「ドイツ社会はナチスのような政党による支配をどう受容していったか」、「ユダヤ人への迫害はどのように過激化していったのか」というようなわたくしたちの素朴な問いに答えていくような構成になっているところにある。刊行から10年が経ったが、その程度ではまったく古びない、講談社現代新書というレーベルのなかでも屈指の名著だと思う。
著者はそうした問い、なかでも文明国だったドイツがなぜヒトラーの台頭を許し、近代的な価値や理念が徹底的に蹂躙されるに至ったのかを問うことに意義を見出しており、それはまったくその通りだと思う。さらに、まさに排外主義を掲げる政治集団が勢力を伸長させているいまだからこそ、同書は(大変不幸なことではあるが)アクチュアリティをさらに増しているとも思う。
そのなかで印象的なのは、戦後初期の西ドイツで、「20世紀のなかでドイツが最もうまくいったのはいつか」という問いに、回答者の40パーセントがナチ時代の前半(第二次世界大戦に突入する前まで)をあげているという点*1。山本秀行『ナチズムの記憶』などが明らかにしているように、ナチス支配下のドイツは、一般大衆にとってはある種居心地のよい時代だったかもしれないのだ。
無論わたくしも参政党が政権を掌握して独裁体制を敷く…ということを危惧しているわけではない。現代日本とヴァイマル共和国では状況があまりに異なるからだ。しかし、こうして選挙結果として示された排外主義へのシンパシーは、日本社会を不寛容で、居心地の悪い方向に変えていく可能性はかなり高いという気がしている。
だからたぶんわたしたちは、排外主義とレイシズムの長い影と、しばらくのあいだ、もしかしたらわたくしにとっては一生、戦い続けなければならないのだろうと思う。おそらくある分水嶺にいるのだろうという気持ちがこの文章を書かせた。愚かな杞憂であってくれればよいのだが。
*1:p.191

