逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』を読んだので感想。
第二次世界大戦下のソヴィエト連邦。モスクワ近郊の村に住む少女、セラフィマは、逃げ延びてきたドイツ軍の残党に村を焼かれ家族も殺されるが、すんでのところでイリーナ率いるソヴィエト軍の部隊に命を救われる。生きた伝説ともいえるリュドミラ・パヴリチェンコの相棒として戦場を戦った歴戦の戦士であるイリーナは、セラフィマに選択を迫る。死か、戦うか。戦うことを選んだセラフィマは、イリーナが養成する孤児を集めた女狙撃兵部隊に身を投じ、独ソ戦の地獄へと足を踏み入れる。彼女が撃つべき真の敵とは、いったいなんなのか。
直木賞候補にもなった、著者のデビュー作。独ソ戦版『鬼滅の刃』という評をどこかでみたが、なるほど、鬼をナチスドイツ、鬼狩りをソヴィエトの精鋭とすると、鬼に村を焼かれ冷酷な教官の下で修業に励むセラフィマは、さながら竈門炭治郎。記号的なキャラクターを扱う手つきはまさにマンガである。
そうしたマンガ的な要素をもちながら、なんとか軽佻浮薄を回避しているのは、著者が独ソ戦について誠実に勉強していることが伝わるからだろう。結部で物語にも入り込んでくるノーベル賞作家、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチだが、まさに『戦争は女の顔をしていない』を着想元としたことはわかるし、ヒトラーの言葉の出典が広く読まれた大木毅『独ソ戦』だったりするし、読むべき本をきちんと読んでいることが伝わってくる小説だった。
この、「勉強している」感も善しあしで、たとえば小川哲の直木賞受賞作『地図と拳』なんかも相当「勉強している」感ある小説だったが、それが悠々と広がりうる作品世界を制約しているような気がして、わたくしとしてはその点を好意的にみられなかった。一方でこの『同志少女』は著者にとってのデビュー作ということもあってか、「勉強している」感によるつたなさみたいなものを、味として受け取ってもいいかなという気持ちになってくるというのもある。
タイトルの真の意味が明かされるクライマックスといい、ある種のシスターフッドを描いているが、それもまた、アニメ・マンガ的リアリズムの世界が培ってきた遺産の一つという気もして、その意味でこの小説は正しくマンガの小説だと思いました。
