ほんとうの男、景浦さんと雑談しているときに山本周五郎をすすめられたので、『季節のない街』を読んだのだった。
戦後、それほど時間のたっていない時期。ありふれた貧民街でどうにかして生きる人々に訪れる悲喜こもごも。自身を飾って醜さを隠す余裕などない底辺の人々を活写した連作短編。黒澤明監督の『どですかでん』の原作で、近年は宮藤官九郎の脚本で連続ドラマにもなった。わたくしはいずれも未見。
クドカンのドラマは舞台を東日本大震災*1後に建設された仮設住宅に舞台を移した翻案だが、原作を読んでみると、山本周五郎自身があとがきで「これらの人たちは過去のものであるが、現在もなお、読者のすぐ身ぢかにあって、同じような失意や絶望、悲しみや諦めに日を送っている人たちがある、ということを訴えたいのである。/それゆえ「ここには時限もなく地理的限定もない」ということを記しておきたい。それは年代も場所も一定ではないのである。」と書いているように、それほど時間・空間が固有の地点と結びついていない筆致になっていて、翻案が成立するのもわかると感じた。
さて、収められた15の短編は結構悲惨な出来事が描かれるものが多く、ホームレスの親子の空想と現実の悲劇が描かれる「プールのある家」、義父による強姦で妊娠した少女の行き場のない苦しみが描かれる「がんもどき」、けなげな倹約家の母をもつ一家が淡々と悲劇に見舞われる「倹約について」なんかが特に印象的で、底辺の街で生じるありふれた悲惨が端的にあらわれている。
そうした悲劇によって苛まれる人間たちを、そばに寄り添って感傷的に書いているわけではない。人間の死をあくまで物理現象ととらえるような筆致で描き、悲惨な目にあう人間がときにユーモラスにさえ感じられるような語りですらある。
一方で、それらを突き放して露悪的に書くというわけでもなく、根底にはいかなる人間に対しても粗雑な他者化を拒むような、ある種のヒューマニズムを感じさせる。この露悪にもセンチメンタリズムにも振り切ることのないバランス感覚が非常に巧みで、それが陰惨なバラック街の生活に確かな実在感を与えていると感じる。
最後におかれた一篇、「たんばさん」は、この暗黒の街にあってなお輝きを放つかすかな善性を描いていて、それで全体がなんとなく救われているような感もある。
「よしよし、眠れるうちに眠っておけ」とそれは云っているようであった、「明日はまた踏んだり蹴けったりされ、くやし泣きをしなくちゃあならないんだからな」
この結部の、なんの救いにもならない安らぎを、それでも擁護するような一節が、強く印象に残ったのであった。
そうそう、山本周五郎、著作権が切れていたことを知らなかったのであった。
