本書は、1970年代から2010年代まで頃までの日本の哲学の展開を、哲学者たちのテクストを丹念に読解することを通して叙述しようとする試み。わたくしは著者のことを、『日本哲学の最前線』の著者として認識していた。同書はおもに2010年代に活躍している哲学者たちを「不自由」との格闘という視点でクリアに紹介していて、その歯切れの良さと見通しの明快さが記憶に残っていた。その著者による、現代日本哲学の歴史を叙述しようとする試みとあれば、期待しないわけにはいかない。
本書は、1970年代、廣松渉・大森荘蔵の仕事からはじまり、永井均・小泉義之らさまざまな哲学者を経由して、最終的には柄谷行人『世界史の構造』にある種のピークをみる、という流れになっている。
その流れをたどるにあたり、著者は「デカルトの糸」「カントの糸」「マルクスの糸」という補助線を引き、取り上げられる哲学者の仕事がどの系列にあたるのか、著者の関心に沿って整理される。それらは、結部で以下のように端的に要約されている。
これらは普遍的な哲学史の法則などではなく、あくまで歴史を眺める際の筋目のようなもの、と述べられるが、この補助線によって、本書の叙述は単なる哲学者の列伝ではなく著者による歴史叙述となっている。
本書による整理は、廣松渉・大森荘蔵の仕事はこの3つの糸のすべての側面を備えたものであったが、やがて「現代日本哲学におけるデカルト的転回」として、池田晶子を嚆矢として永井均・小泉義之らによる、純粋な思考の追及がなされる。これが「デカルトの糸」が強調された局面だが、そこから中島義道、野矢茂樹らによるメタ的な理論構築、すなわち「カントの糸」の前景化が生じる。そして臨床哲学を経由して、大越愛子、森岡正博らの歴史的な構造へのフォーカスにより「マルクスの糸」が閃き、「歴史の時代」としての「いま」が立ち現れる、というような流れ。
本書が取り上げる哲学者は、名前を知っている人も著作を読んだことのある人も、名前すら知らなかった人もいたが、驚いたのは池田晶子にひとつの結節点的なモーメントをみていること。わたくしは彼女を「哲学者」を名乗るエッセイストぐらいに思っていたので、哲学史上でこうした役割を付与されていることは驚きだった。
さて、本書の手並みがあざやかなのは、本書自体も3本の糸の構図の中に位置付けて筆を置くその手際。
第1に,哲学史の企てはときにたんなる〈思想の列挙〉へ頽落するが,私は自らの思考を通していわば「それ自体が哲学であるような哲学史」を展開した。たしかに本書も(それが何であるかを語る以上)思想を並べ立てる作品と解釈されうるが,それでもそこには思考の動性が存す。本書が「哲学的な」哲学史であること,ここに〈デカルトの糸〉の閃きがある。
第2に本書は,事後的に振り返れば気づかれるように,哲学史にかんするメタ的な理論を含む。それは哲学史を〈デカルトの糸〉・〈カントの糸〉・〈マルクスの糸〉の本から成る撚糸と捉える理論だ。こうした史的理説を具体的なテクスト読解にもとづいて構築すること,ここに〈カントの糸〉の耀きがある。第3に本書は,とくに第17・18章で見られたとおり,近代と対決する。第2章で「〈近代と向き合う〉というモチーフへふたたび薪をくべること」を「本論のやりたいこと」のひとつとしたが,この作業もきっちり遂行した。そしてそれによって《近代的な哲学の反復を抜け出すべし》という当為が取り出された。本書は〈マルクスの糸〉の作品でもある。*1
本書には教えられることも多かった一方で、取り上げていない飯田隆などの分析哲学とかの流れはどう位置付けられるのか、とか気になる点もあった。とはいえ、本書がチャレンジングな試みであることに疑いはなく、たいへんおもしろく読みました。
*1:pp.349-350

