
『花緑青が明ける日に』をみました。以下、感想。
神奈川県。海沿いの寂れた街、二浦市。水軍の伝承を引き継ぐ花火工場は、道路建設のため立ち退きを要請されていた。花火工場の息子二人と親しくしていて、自身も花火師を目指していた少女、カオルは、それをやきもきしながらみていたが、ある事件をきっかけに街に居場所をなくし、東京の美術大学に進学する。
4年後、補助金がらみで彼女に接触したのは、花火工場の息子の一人で、いまは二浦市役所勤めの帯刀千太郎。彼は弟、敬太郎がいまも立ち退きに抵抗して花火工場に立てこもっていること、そして明日、行政代執行が行われようとしていることを告げる。なしくずし的に故郷、そして花火工場に戻ることになったカオルは、敬太郎が伝承にある幻の花火「シュハリ」を打ち上げようとしていることを知る。
日本画家で、新海誠監督『言の葉の庭』・『君の名は。』、片渕須直監督『この世界の片隅に』などにかかわってきた四宮義俊による、初の長編アニメーション作品。アニメーション制作はスタジオアウトリガー。
ほぼ2日間足らずのささやかな出来事を中心に描いたミニマルな作品で、上映時間も70分ほどだが、作り手の執念を感じさせる美術がすばらしく、見ごたえのある映画になっている。キャラクターはおおむねリアリズムに則って造形されているが、突如実写ストップモーションアニメの場面が挿入されたり、奇妙な自在感がある。
ほとんどの時間、花火工場兼帯刀家の住宅を舞台にして進行するが、作中でも「建築基準法違反」と指摘される、おそらく増築を重ねてきた異形の日本家屋であるこの邸宅が、アバンシーンから強烈な存在感を放っている。カオリがトンネルを抜け、立ち入り禁止の看板を無視してこの邸宅に向かっていく冒頭の場面は、さながら秘密基地を訪ねるような高揚感がある。
カオリたちが生まれ育った二浦市自体はそれほどカメラには映されないが、周囲に民家もなく、そして目の前には湾を埋め立ててソーラーパネルが敷設された殺伐とした光景が広がっていて、この象徴的なロケーションで、彼女たちをとりまく世界の殺伐さが見事に表現されていると感じる。彼女らをとりまく世界にはいいようのない閉塞感が漂っていて、そしてカオリと千太郎はそれをほとんど自明のことのように受け入れているように思える。
それを拒否して、世界そのものすら拒否するがゆえに引きこもっている敬太郎だが、彼の計画する花火の打ち上げも、それさえ叶えばすべてハッピーエンドになるわけではない。そのことは敬太郎自身も自覚しているようでもある。しかしそれでも、この三人の青年は花火の打ち上げを目指して奮闘することになる。
この花火の打ち上げのシークエンスは言うまでもなくこの映画のクライマックスで、劇場の大スクリーンに映える、幻想的でカタルシスを感じさせる見せ場になっている。本来であれば「シュハリ」が成り立つ条件をすでに失っているにも関わらず、偶然の巡りあわせで、別の仕方で「シュハリ」が再現されることになるこの場面は、この映画にとっての過去と現在の関係性を端的に象徴しているようにも思える。輝かしき過去は既に決定的に毀損されているのだが、しかしそれでも、わたしたちの「いま」は別の方法によって輝きを取り戻すことができるかもしれない、と。そしてそれは、まさに過去を毀損した何事か——無機質なソーラーパネルのような────をこそ、梃子にして駆動しうるかもしれないのだ。
無論、その輝きはつかの間のものでしかないが、その残り香がなにかを変えてゆく可能性を示唆してこの映画は終わる。諦めがすべてを支配するこの時代にあって、それでも夜明けのほうへ車を走らせてゆくこと。それがこの映画のみせた、わたくしたちの辿りうる道の一つなのだろうと思う。
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このぼんやりとした息苦しいトーンは、たとえば『アリスとテレスのまぼろし工場』なんかにも通じるものがあると思っていて、2020年代の風景の基調はこれなのでは、ということをぼんやり思っているのだった。
