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近代移行期の軋み────紀平英作『リンカン』感想

リンカン 「合衆国市民」の創造者 (岩波新書)

 紀平英作『リンカン──「合衆国市民」の創造者』を読んだので感想。

 本書は、アメリカ合衆国の歴史上、最も高名な大統領といっていいだろう、エイブラハム・リンカン(1809-1865)の評伝。著者の紀平英作はアメリカ史学会の大御所で、昨年亡くなっているようなので、本書が生前最後の著作であるようだ。

 合衆国大統領を取り上げた新書は意外に少なく、最近でいえば佐藤千登勢『フランクリン・ローズヴェルト──大恐慌と大戦に挑んだ指導者』が2021年、土田宏『ケネディ──「神話」と実像』が2007年に出ているくらいか。わたくしはどちらもおもしろく読んでいて、この『リンカン』も期待をもって手に取った。

 中西部イリノイ州を地盤とする地域政治家として出発したリンカンは、キャリアを積む中でその視野を次第に広げていき、やがては合衆国を束ねる大統領の地位につくが、そこがまさにアメリカが国家としての最大の危機に直面した時機であった。本書はその歩みをリンカンの肉声や書き残した記録を拾って後付け、彼が自身の政治家としての思想と行動を洗練させてゆくさまを丁寧に論じる。

 一読して、新書にしては結構高踏的な表現が多いな、という印象を抱いていて、わりと大仰な形容でもってリンカンの思想と行動が表現されるので、文体のうえでは結構好みが分かれそうではあるが、さすが大御所というべきか、叙述は手堅く、全体としては啓蒙的でよいイントロダクションになっていると思う。

 リンカンが生きた19世紀のアメリカは近代化による社会の激変のさなかにあり、現在はイリノイ州最大の年であるシカゴも、彼が若かりし頃はまだ鄙びた寒村にすぎなかった。近代化のなかで交通網が整備され、それまで巨大な大陸のなかで独立独歩の風であったそれぞれの州が、合衆国として統合される基盤が形成されつつあった——とまでは本書は断定していないが、わたくしはそのような契機を読み込めると思う。そのなかで生じた奴隷制をめぐるコンフリクトが頂点に達したことで、「内戦」(本書は所謂南北戦争をこだわりをもってこう表記する)を経たドラスティックな統合がなされるというわけだ。

 そうした統合を成し遂げ、州の住民であるという以上に「合衆国市民」であるという法的な基盤を与えたという点で、南北戦争後に成立した合衆国憲法の3つの修正条項をうち、奴隷解放にかかわる修正第13条以上に、合衆国市民について規定した修正第14条の意義を本書は強調している。条文は以下の通り。

アメリカ合衆国で生まれ、あるいは帰化した者、およびその司法権に属することになった者全ては、アメリカ合衆国の市民であり、その住む州の市民である。如何なる州もアメリカ合衆国の市民の特権あるいは免除権を制限する法を作り、あるいは強制してはならない。また、如何なる州も法の適正手続き無しに個人の生命、自由あるいは財産を奪ってはならない。さらに、その司法権の範囲で個人に対する法の平等保護を否定してはならない。

 

 さて、本書を読んで驚いたのが、リンカンは少なくとも内戦勃発以前は積極的な奴隷解放論者ではなく、内戦中の政治的な綱引きのなかで、あるいは周囲の影響を受ける中で奴隷解放宣言に結実する思想を練り上げていったのだ、ということ。このあたりの思想史的な読み解きは本書のおもしろみの一つだろう。

 最晩年の演説では黒人の参政権にも言及していて、もし暗殺されなければ、南北戦争後の南部における根深い人種差別の歴史が別様であったかもしれないと本書は示唆する。それはリンカンの思想と政治的手腕とを最大限に肯定的に評価しているように思えるが、本書を読むと結構説得されてしまうようなところがある。