宮台真司、奥野克巳『宮台式人類学――前提を遡る思考』を読んだので感想。
本書は、宮台真司による全11回の講義をまとめたもの。宮台と奥野による共著というかたちになっているが、奥野は聞き手という感じではある。元は奥野によるYouTubeの講義のようで、新書で約500頁という分厚さだが、繰り返しも多く、書籍という形式であればもっとコンパクトにできたような気もする。しかし圧縮された記述を繰り返すことで受講者・読者の理解度を上げる…という戦略でもあるようなので、ひとまずこの長さに付き合うしかないのだろう。
学部生のころ、90年代の宮台の著作を集中的に読んでいた時期があり、久々に宮台の著作に接したが、都立大学を退官した宮台がいまは社会学者ではなく「人類学者」と自認していることに驚いた。まあこの手の肩書にあまり意味があるとも思えないが…。
現在的性愛の生態系(前提付け連関)の全体性を記述する者が、僕しかいない事実があります。偶然に責務を負った者が、責務を果たすために命を賭ける。「生きるための営み(力が湧く)→食うための営み(力を失う)→責務のための営み(再び力が湧く)」というフレントの図式通りですが、僕の営みは、全体性が誰にも見えなくなったポストモダン(前述)社会を記述する人類学だと思います。システム理論家である僕の自認は「人類学者」です。*1
さまざまな先行する思想家が引かれ、縦横無尽に論じられていくさまには率直にいって圧倒される。この、学際的というか横断的に無数の引用を繰り返し、そこから現代を一刀両断していくパワフルな語りは、宮台の師匠筋の一人である小室直樹ってこんな感じやったんかなという感ももった。実業家ピーター・ティールを、投資を通じて自身の思想を現実化していく思想家として評価していたり、教えられることも多かった。一方で、宮台が強く影響を受けたというリチャード・ローティについて、単純な事実誤認か記憶違いかと思えるような記述もあり(主著『哲学と自然の鏡』の出版年の間違い(p.140)、「アカデミック・ポスト」を失ったという記述(p.140)、『偶然性・アイロニー・連帯』を「初期作」と評する(p.43))、宮台の責なのか校正の甘さなのか判断が難しいが、なんというか、眉に唾を付けて読むべき本というか、一定の距離を保って接したほうがよい本であるのは間違いないと思う。あらゆる本がそうなのではあるが…。
本書の主張を簡単には要約しがたいが、中核となるのは、現在の社会学はウェーバーやデュルケム、ジンメルら黎明期の巨人の問題意識(それは初期の人類学ともリンクするものである)を忘却し、頽落しており、それを批判的に乗り越えるために人類学的な思考が要請される、というもの。
20世紀後半からの「公正と正義」のアメリカ社会学は、学問と政治の分化退行による学的伝統の破壊において、社会学の頽落です。20世紀前半のドイツ社会学は、近代社会学の3人の父から「前提を遡る思考」を継承。良さげに見えるX(例えば民主制)について「XのX以前的前提」を指摘、「良さげに見えるものの危険」に警鐘を鳴らしましたが、20世紀後半のアメリカ社会学は「良さげに見えるもの」を「良きもの」へと短絡したのです。*2
このあたりは現在の日本の社会学のメインストリームへの強い批判でもあるが、しかし宮台の山師的魅力は現在のアカデミズムとなじまないのはそうやろうな…という感じもする。
